親鸞会でお聞きしたお話を綴っています。先日、座談会に参加させてもらいました。いわゆる「質疑応答」です。そこで「八識」について質問された方があり、詳しく聞かせてもらいました。
仏教では「心」といっても、いろいろあると教えられ、八つに分けて「八識(はっしき)」と言われるそうです。「識」というのは「心」のことですね。
その八識の中で、「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」の五つを「前五識(ぜんごしき)」といわれるんです。ちょっと、文字にすると難しく見えますが、とても分かりやすいお話でしたよ。
「眼識(げんしき)」とは目の心とあるように、色や形を見分ける心。私たちは、いろいろなものを目にしますが、嫌なものは見たくありません。(食事時に、殺人事件のニュースって、やめてほしいですよね。自分が見なければいいんですけど)。そこで、目を楽しませてくれるものを求めます。例えばきれいな風景や、かわいい動物、美しい女性など。しかし、どんなにきれいなものといっても、ずーっと見て飽きないものはない、と教えてもらいました。確かにその通り、ですよね。「虹を15分眺める人はない」ということわざを、どこかで聞いたことがあります。世界遺産をめぐる旅がはやっていますが、たぶん、現地に住んでいる人には見慣れた風景で、初めて訪れた人の胸におこる感動は味わえないでしょう。そういえば、親鸞会館の近くにも名勝・雨晴海岸があります。海の上に3000メートル級の山々がそびえる、世界でも3カ所だけの絶景とか。そんな海岸に住んでいたら、毎日絶景に感動の人生となるでしょうか。答えはNo。やがて見飽きて、ただの海になるそうです。現地の人が言っているので間違いありません。私も昔は、海の見える家に住むのが夢でした。そんなところに住んだらどんなに幸せだろうと思っていましたが、眼識の実態を知れば、それは幻想と認めざるをえません。早く気づいてよかったというべきでしょうか。どんな美しいものも、見続けたら飽きる。だから私たちは、次から次へと別のものを追い求めることになります。夫婦にあてはめるとちょっと危ないですけどね。
「耳識(にしき)」とは耳の心。音を聞き分ける心です。これも、どんなに心地のよい音楽でも、ずっと聞き続けても飽きないものはないでしょう。だから常に新しい音楽が生み出され、何百曲もIpodにいれて、シャッフルしています。
「鼻識(びしき)」とは鼻の心。においをかぎ分ける心です。どんないい香りも、ずっとかいでいたら、そのうち鼻が慣れて最初の心地よさは感じられなくなります。だからこそトイレに入っても救われる、と聞きました(笑)。いい香りだけでなく、臭いものでも、鼻が馬鹿になって平気になるということですね。ともあれ鼻識の楽しみも一時的なものです。
「舌識(ぜっしき)」とは舌の心。食べる楽しみです。どんなに美味しい物でも、食べ続けたら飽きます。私は、おいしいものを見つけたら飽きるまで食べる主義ですが、その結果、やがて足が遠のき、見向きもしなくなったものがいくつあることか。小さいころ、グラタンが大好きで食べ続けた結果、今は逆に全く食べられなくなってしまったという、気の毒な知人がいます。これは極端な例としても、毎日同じメニューを食べ続けたら、どんなに美味しくても最初の感動はなくなるでしょう。
「身識(しんしき)」とは身体の心。寒、暖、痛、快などを感じる心です。これも、いつまでさわっていても心地いいというものは、ありません。
こうしてみてみると、「前五識」の楽しみって、はかないですよね。刹那的というか。しかし考えてみれば、毎日私たちが追い求めているものって、ほぼこれしかないんじゃないかと思います。「楽しみ」というキーワードを頭の中で検索して出る項目は、大体、前五識のどれかに分類できそうです。そして、あれも飽きたし、これも飽きた、とだんだん絞込み検索されて「何か、楽しいことない?」と言っている。正直、そういうのはもういいよっていう感じが、するわけです。もっと違う幸せを求めたいというか。仏教で問題にしているのは、そんな前五識の楽しみではなくて、もっと深い心にあるようです。だから魅かれるのかもしれませんね。ひき続き、親鸞会で詳しく聞いていきたいと思います。