8月 10
親鸞会で聞いたお話の感想、まとめです。
「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝もわが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路の末・三塗の大河をばただ一人こそ行きなんずれ」
(いよいよ死ぬときには、それまで信じ、頼りにしてきた妻も子供も、お金や財産も何一つ持ってはいけない。すべてに見捨てられ、たった一人で次の世に旅出っていかなければならない)
そうなんだよなー。そうなんだけど…。わかっているんだけど…。妻子や財宝に代表される、相対的な幸福を、求めずにいられないのが人間ですよね?ということを、もやもやと考えていたら、先日、親鸞会のお話で、そのように執着する心も「煩悩」であり、煩悩具足の私たちは、妻子や財宝などの丸太や板切れにすがらずには生きられないものであることを教えてもらい、腑に落ちました。
そして、そんな煩悩具足で果てしなく苦しみ続けるしかない私たちを、変わらない本当の幸せ「絶対の幸福」にしてみせると約束されているのが、阿弥陀仏の本願といわれるもので。この阿弥陀仏の本願を聞いて、はじめてあらわれるのが「自力の信心」といわれる3つめの信心。そして阿弥陀仏の本願力によって「絶対の幸福」になったのが4つめの「他力の信心」と教えてもらいました。この説明は、僕にはまだ難しいので、これくらいにしておきたいと思いますが、引き続き、親鸞会のお話を聞いて勉強したいと思います。
7月 13

「信心」という言葉を聞いて、どんな印象を受けるか、というのは人それぞれだと思いますが、僕は正直、嫌な感じを受けます。それはたぶん、宗教=信心=盲信みたいなイメージがあるから。そんな僕にとって、「信心」といっても4通りあるという親鸞会のお話は、目からウロコが落ちるものでした。
4つのうちの1つ目は、神や仏を信じてご利益を願う信心。僕が嫌な感じを受ける信心はここに入りそうです。2つ目は、心で何かを信じる信心。例えば、金こそ幸せという金信心、健康こそ幸せと信じている健康信心、子供の存在が私の幸せという子供信心など、など。何を信じるかは人それぞれ違いますが、人は何かを信じ、支えにし、頼りにしなければ、生きてはいけないということは、間違いなさそうです。
ところが、ここで大きな問題が立ちはだかります。それは、これらの信心は、いずれも、今日あって明日なき無常のものを信じているために、常に壊れはしないかという不安がつきまとって離れない、という問題。この問題がやっかいなのは、この不安は、信じるものを変えようがなくならないし、深く信じれば何とかなる、という問題でもないところ。「構造的に解消不能」といえばいいか。何をどう信じても、どうあがいても逃れられない。詩的にいえば、人生って、こういうふうに呪われているんだ、みたいな。かりに何もかも無常と認めてしまえば、崩れても苦しまず、すましていられるのかもしれないけど、それで幸せと感じられるのだろうか。ただの不感症では。
「諸行無常」と説かれたお釈迦さまの、さとりの第一声が「人生は苦なり」だと聞いたことがあるけど、間違いなく「人生って苦しいこと多いよね」程度の単純な意味じゃないと思う。仏のさとりをひらかれて教えられたというからには。もしかしたら、この構造的に不安のまじった幸せ(信心)しかありえない僕たちの人生は、生まれてから死ぬまで不安に覆われていることを「人生は苦なり」と言い表されているんじゃないだろうか、なんてことを考えている今日このごろです。極めつけは、たとえしばらく幸せが続いても、死という総崩れの終末が迫っているという現実です。親鸞会のお話で、蓮如上人という方の言葉を習いました。
「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝もわが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路の末・三塗の大河をばただ一人こそ行きなんずれ」
いよいよ死ぬときには、それまで信じ、頼りにしてきた妻も子供も、お金や財産も何一つ持ってはいけない。すべてに見捨てられ、たった一人で次の世に旅出っていかなければならない、と。
この構造的に解消不能な幸せ問題に対して、仏教にはどんな解答があるのか、というのが次の問題です。
引き続き、親鸞会のお話を聞いて勉強したいと思います。

6月 17

「信心」という言葉を切り口に、ボクの頭を整理しています。ひとくちに「信心」といっても4通りあると親鸞会のお話で教えてもらいました。
1つ目は、神や仏を信じてご利益を願う信心。2つ目は、心で何かを信じる信心。例えば、金さえあれば幸せと信じている「金信心」、健康こそ幸せと信じている「健康信心」、子供が宝と信じている「子供信心」など。
2つの信心に共通するのは、そこで求めている、得られる幸せは「相対的な幸福」であることだと思います。
2つが違う点は、1つ目の信心は持たない人もあるけれど、2つ目の信心を持たない人は一人もないというところ。なぜなら、何かを信じなければ、人は生きていけないから。
ところが残念なことに、これらの信心は、いずれも、今日あって明日なき無常のものを信じているために、常に壊れはしないかという不安がつきまとって離れないという特徴があります。そのことを、お釈迦さまは「諸行無常」と説かれ、親鸞聖人は「火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごと、たわごと、まことあることなし」と「歎異抄」に断言されています。
ボクは親鸞会でお話を聞いてはじめて、この「歎異抄」の言葉を知りましたが、この言葉が人生観に与えた衝撃度ははかりしれません。しかも、これをくつがえして、そんなことない、こんな幸せだってあるだろ、と説得してくれる別の解答にいまだ遭遇せず。これが「本当のこと」だということは、内心みんな分かっているんじゃないかな。この「本当のこと」を、蓮如上人もズバリ説かれているんだけど、それは次回に書きたいと思う。続けてもっと親鸞会で学んでいきませう。

5月 30
親鸞会で聞いたお話の感想、前回から「信心」という言葉を切り口に僕の理解を整理しようと試みています。
90年の生涯、「信心一つで救われる」と教えられた方が親鸞聖人、と言われるほど、重要なキーワードがこの「信心」ですが、ひとくちに「信心」といっても4通りあると親鸞会のお話で教えてもらいました。
まずはじめに、世間一般に思い浮かべる、神や仏を信じてご利益を願う信心。ふつう信心といったらこれでしょう。「もっと信心しなさい」とか「信心が足らない」という、あれですね。
でも、信心とは、文字通り、心で何かを信じることですから、じつは神や仏を信じるだけが信心ではなく、心で何かを信じていれば、それはその人の信心。例えば、金さえあれば幸せになれると信じている人は「金信心」であり、健康こそ幸せのすべてと信じている人は「健康信心」、結婚さえすれば人生バラ色と信じているのは「結婚信心」。子供が命と信じているのは「子供信心」といった感じで、「これがあれば幸せ」と信じ支えにしているのは、みんな「信心」であって、これが2つ目の信心です。
1つ目の信心(神や仏にご利益を願う信心)は、持たない人もあるでしょうが、2つ目の信心は、持たない人は誰もいないでしょう。何らかの希望や明かりがなければ人は生きていけないからです。何の信心も持たない人があるとしたら、それは死が光明となった人、すなわち自殺していく人ということになりそうです。というわけで、すべての人は、この2つ目の信心をもっているわけですが、この信心には宿命的な弱点が。。。
さらに続けて親鸞会で、仏教の奥深いところを学んでいきたいと思います。
4月 28
親鸞会で聞いたお話の感想などを綴っています。
今回から「信心」というキーワードをもとに、僕の理解をまとめてみたいと思います。
詳しい人によると、親鸞聖人の教えを学ぶときに「信心」は、キーワード中のキーワードらしいです。しかも世間一般の単純な意味とは全く違うので、うかつには触れられないような気配も感じます。そもそも「親鸞聖人といえば念仏でないの?」と、ふつうみんな思うと思うのですが、どうも違うようなのです。
どうしてそれが分かるかというと、浄土真宗で超有名な「聖人一流の章」というものがあって、これは親鸞聖人から数えて8代目の蓮如上人という方が書かれたものですが、浄土真宗では中興上人といわれる有名なお方です。その蓮如上人の書かれた手紙を「御文章」とか「おふみ」と言われるんですが、その中で最も有名な一つが「聖人一流の章」です。前置きが長くなりましたが、その「聖人一流の章」の冒頭に、このように記されています。
「聖人一流のご勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」
(親鸞聖人が生涯教えられたのは、信心一つで救われるということである)
親鸞聖人の教えは「信心をもって本とする」と断定されているんですね。そこで、親鸞聖人の教えられた「信心」とはどんなことか、ということが壮大なテーマになるんですが、親鸞会のお話の中で、信心といっても4通りあることを教えてもらいました。
まず世間一般に思い浮かべる、神や仏を信じてご利益を願う信心。ふつう、信心といったらこれですよね。「もっと信心しなさい」とか「信心が足らない」というのは、神や仏に対する信心のこととして使っています。ところが、神や仏を信じるだけが信心ではないと聞かせてもらいました。その話は次回に。
続けて親鸞会で仏教の奥深いところを学んでいきたいと思います。
3月 11
運命の仕組み「因果の道理」について、親鸞会で聞いたお話を思い出しながら、頭の整理をしています。今回のテーマは、因果の道理を知ると、よい結果が自分に現れたとき、どんな生き方になるのか。
因果の道理は、
善因善果
悪因悪果
自因自果
まかぬ種は生えぬが、まいた種は必ず生える。
よいのも悪いのも、自分に現れる運命のすべては、自分のまいた種ばかり。
ならば、善い結果に恵まれた時は、どうか。単純に考えれば、それは自分がよい種をまいたから自分によい結果が現れた(善因善果、自因自果)んでしょ?だから「これは自分がよい種まいたからだ」と思って、もっとよい種をまこうと努力するんじゃないの?と誰でも思いますよね。でも、親鸞会のお話の中で、善い結果が現れた時は「感謝となり、努力となる」と教えてもらいました。
因果の道理が深く知らされたら、善果が現れたとき「感謝」となるんですね。「感謝」があるから「努力」となる。「感謝」なくして「努力」なし。なぜ「感謝」となるのか?ぜひ皆さま、考えてみてください。深い・・・深いです、因果の道理。
僕も続けて親鸞会で仏教の奥深いところを学んでいきたいと思います。

運命の仕組み「因果の道理」について、親鸞会で聞いたお話を思い出しながら、頭の整理をしています。今回のテーマは、因果の道理を知ると、よい結果が自分に現れたとき、どんな生き方になるのか。

因果の道理は、

善因善果

悪因悪果

自因自果

まかぬ種は生えぬが、まいた種は必ず生える。

よいのも悪いのも、自分に現れる運命のすべては、自分のまいた種ばかり。

ならば、善い結果に恵まれた時は、どうか。単純に考えれば、それは自分がよい種をまいたから自分によい結果が現れた(善因善果、自因自果)んでしょ?だから「これは自分がよい種まいたからだ」と思って、もっとよい種をまこうと努力するんじゃないの?と誰でも思いますよね。でも、親鸞会のお話の中で、善い結果が現れた時は「感謝となり、努力となる」と教えてもらいました。

因果の道理が深く知らされたら、善果が現れたとき「感謝」となるんですね。「感謝」があるから「努力」となる。「感謝」なくして「努力」なし。なぜ「感謝」となるのか?ぜひ皆さま、考えてみてください。深い・・・深いです、因果の道理。

僕も続けて親鸞会で仏教の奥深いところを学んでいきたいと思います。

2月 15
前回は、運命の仕組み「因果の道理」について、これまで親鸞会の座談会などで聞いてきたことを、断片的にまとめてみた。ここからは、ボクの頭の整理です。テーマは、因果の道理を知ると、どんな生き方に変わるのか、ということについて。
まず、運命を生み出すのは私の行為であり、得体のしれない神や先祖の霊のしわざではないと知れば、ほっとするし、運命について重苦しい不安感は、なくなると思う。
そして善いのも悪いのも、自分に現れる運命のすべては自分の行為が生み出すとなれば、誰でもやっぱり善い運命がほしいから、善いことをしようという気持ちになるし、悪い運命はいやだから、悪いことはしないようにしようという気持ちになる。これを「廃悪修善」って、たしか親鸞会のお話の中で聞いたように思う。
また、あらゆる結果は因と縁が結びついて現れ、因と縁は同等に重要だから、悪い縁を避け、善い縁に近づく生き方になると思う。縁を選んでいくことも、すごく大事だよね。
そして、悪い結果が現れた時。普通なら、他人を恨みのろい、その心でまた苦しむところだけれども、因果の道理を見つめたら、自分のまいた種と反省する気持ちになり、心が落ち着くように思う。ゆるしとか、受容というのだろうか。一見するとアキラメ主義のように思えるが、アキラメ主義と違うのは、起きてしまった結果は自分の過去にまいた種と受け止め、未来の運命は、これからの種まきで変えていこうという意志があるところではないだろうか。そういう意味ではアキラメていないわけで。あきらかにみて、あきらめていない。行動の原動力が恨みや復讐とは違う、ポジティブな生き方になるのではないだろうか。
じゃあ、善い結果に恵まれた時はどうなるのか?これが一筋縄ではいかなくて、以前に親鸞会で聞いたお話をもとに次回、整理してみたいと思う。
前回は、運命の仕組み「因果の道理」について、これまで親鸞会の座談会などで聞いてきたことを、断片的にまとめてみた。ここからは、ボクの頭の整理です。テーマは、因果の道理を知ると、どんな生き方に変わるのか、ということについて。
まず、運命を生み出すのは私の行為であり、得体のしれない神や先祖の霊のしわざではないと知れば、ほっとするし、運命について重苦しい不安感は、なくなると思う。
そして善いのも悪いのも、自分に現れる運命のすべては自分の行為が生み出すとなれば、誰でもやっぱり善い運命がほしいから、善いことをしようという気持ちになるし、悪い運命はいやだから、悪いことはしないようにしようという気持ちになる。これを「廃悪修善」って、たしか親鸞会のお話の中で聞いたように思う。
また、あらゆる結果は因と縁が結びついて現れ、因と縁は同等に重要だから、悪い縁を避け、善い縁に近づく生き方になると思う。縁を選んでいくことも、すごく大事だよね。
そして、悪い結果が現れた時。普通なら、他人を恨みのろい、その心でまた苦しむところだけれども、因果の道理を見つめたら、自分のまいた種と反省する気持ちになり、心が落ち着くように思う。ゆるしとか、受容というのだろうか。一見するとアキラメ主義のように思えるが、アキラメ主義と違うのは、起きてしまった結果は自分の過去にまいた種と受け止め、未来の運命は、これからの種まきで変えていこうという意志があるところではないだろうか。そういう意味ではアキラメていないわけで。あきらかにみて、あきらめていない。行動の原動力が恨みや復讐とは違う、ポジティブな生き方になるのではないだろうか。
じゃあ、善い結果に恵まれた時はどうなるのか?これが一筋縄ではいかなくて、以前に親鸞会で聞いたお話をもとに次回、整理してみたいと思う。
1月 21
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
中断していましたが、運命の仕組み「因果の道理」について、これまでの僕の理解をまとめる続きです。
・結果には必ず原因がある。「まいたタネは必ず生える。まかぬタネは絶対生えぬ」
・あらゆる結果は、「因」と「縁」が和合して現れる。
因と縁、どちらか一方が欠けても結果は生じない。その意味で因と縁は同等。
・因とは自分の行為(業)であり、自分の行いが自分の運命を生み出す(自業自得)。
・行為には、身口意の三業がある。
・私の善悪の行為は、目に見えない不滅の力(業力)となって永遠の生命に蓄えられる。これを業因とも業種子ともいわれる。
・業因に縁が結びついて、善悪の結果(運命)を生み出す。
・縁には、選べる縁と選べない縁がある。
・自分に現れた運命を見れば、記憶の有無に関わらず、そのような運命を生み出す業因を自分が過去につくったことが分かる。
・他因自果(他人の行為が因となり、自分の運命を生み出す)は絶対になく、他因自果のように思える他因は、縁である。
・縁を因と混同して、他を恨み呪っている愚かさを「縄をうらむ泥棒」といわれる。
・とはいえ縁は、結果を生み出す重要な働きをするから、悪い縁は排除しなければならない。
これまで親鸞会の座談会などで聞いてきた断片を、整理してみました。もっといろいろあるかもしれないけど、おさらいはこれくらいにして、この運命の仕組みを知ると、どんな生き方が導き出されるのか、ということについて、思いつくままに考えてみたいと思う。
まだまだこれからも親鸞会で学んでいきますよ。
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
中断していましたが、運命の仕組み「因果の道理」について、これまでの僕の理解をまとめる続きです。
・結果には必ず原因がある。「まいたタネは必ず生える。まかぬタネは絶対生えぬ」
・あらゆる結果は、「因」と「縁」が和合して現れる。
因と縁、どちらか一方が欠けても結果は生じない。その意味で因と縁は同等。
・因とは自分の行為(業)であり、自分の行いが自分の運命を生み出す(自業自得)。
・行為には、身口意の三業がある。
・私の善悪の行為は、目に見えない不滅の力(業力)となって永遠の生命に蓄えられる。これを業因とも業種子ともいわれる。
・業因に縁が結びついて、善悪の結果(運命)を生み出す。
・縁には、選べる縁と選べない縁がある。
・自分に現れた運命を見れば、記憶の有無に関わらず、そのような運命を生み出す業因を自分が過去につくったことが分かる。
・他因自果(他人の行為が因となり、自分の運命を生み出す)は絶対になく、他因自果のように思える他因は、縁である。
・縁を因と混同して、他を恨み呪っている愚かさを「縄をうらむ泥棒」といわれる。
・とはいえ縁は、結果を生み出す重要な働きをするから、悪い縁は排除しなければならない。
これまで親鸞会の座談会などで聞いてきた断片を、整理してみました。もっといろいろあるかもしれないけど、おさらいはこれくらいにして、この運命の仕組みを知ると、どんな生き方が導き出されるのか、ということについて、思いつくままに考えてみたいと思う。
まだまだこれからも親鸞会で学んでいきますよ。
12月 10
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。前回に続き、報恩講のお話から。
東日本大震災から4年8カ月。私たちは何を学んだだろう。あるテレビでは「ぐらっときたら逃げる」ことを学んだと言っていた。それは間違いないけど、揺れを感じてすぐ高台に走り、津波から逃げられたとしても、その時は死なずに済んだということであって、死ななくなったわけではない。人間の営みは、いかに死を遠ざけて長生きするかという一点に注がれているが、たとえ科学や医学の力で、災害や病気から死を遠ざけることはできても、死から逃げ切ることは絶対不可能です。ならば、難度海を度する大船に乗る以外に、ほんとうの意味での救いはないことを、この世の悲劇から学ぶべきではないだろうか……。と、深く考えさせられるお話でした。
では、その大きな船に乗ったら、どんな絶景が広がるのか。絶対の幸福といわれる、その幸せとは?それについても詳しく聞かせてもらいましたが、とても僕にはうまく書けないので、ぜひ親鸞会の法話で直接聞いてください。
とりあえず、報恩講で特に心に残った3つのことを、書き留めてみました。これからも親鸞会で聞いたお話の感想、還元していきます!
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。前回に続き、報恩講のお話から。
東日本大震災から4年8カ月。私たちは何を学んだだろう。あるテレビでは「ぐらっときたら逃げる」ことを学んだと言っていた。それは間違いないけど、揺れを感じてすぐ高台に走り、津波から逃げられたとしても、その時は死なずに済んだということであって、死ななくなったわけではない。人間の営みは、いかに死を遠ざけて長生きするかという一点に注がれているが、たとえ科学や医学の力で、災害や病気から死を遠ざけることはできても、死から逃げ切ることは絶対不可能です。ならば、難度海を度する大船に乗る以外に、ほんとうの意味での救いはないことを、この世の悲劇から学ぶべきではないだろうか……。と、深く考えさせられるお話でした。
では、その大きな船に乗ったら、どんな絶景が広がるのか。絶対の幸福といわれる、その幸せとは?それについても詳しく聞かせてもらいましたが、とても僕にはうまく書けないので、ぜひ親鸞会の法話で直接聞いてください。
とりあえず、報恩講で特に心に残った3つのことを、書き留めてみました。これからも親鸞会で聞いたお話の感想、還元していきます!
11月 30
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。前回に続き、報恩講で聞いた内容について。
親鸞聖人は人生を「難度海」と言われている。「渡ることが難しい海」と書いて「なんどかい」。それは「苦難、困難、災難」の波に翻弄されるから。そして私たちが気をつけなければならないのは「有頂天」の時。有頂天がいちばん危ないということを、教えてもらいました。
有頂天とは、山の頂上に有るということですよね。「人は山の頂上に登ることはできても、そこに長くとどまることはできない」といわれます。頂上まで達したら、あとは降りるしかない。転落するしかない。人生でも何もかも調子のいい、絶好調のときほど、足下をすくわれやすい。……うーん、間違いない真理だと思います。
親鸞会のお話では、シルバーウィークにあった川釣りボートの転落事故などを例にお話されましたが、最高に幸せな瞬間から一転して地獄を味わう火宅無常の世界の恐ろしさ、幸せのもろさ、はかなさ、不確かさに、気づかぬわけにはいきません。
そんな難度海に、そんな難度海を、明るく楽しく渡す「大船」がある、というのが、親鸞聖人90年の教えなんですね!あれれ、「念仏称えたら誰でも極楽」という世間の常識とはずいぶん違う印象です。ボクも驚きの連続でしたが、親鸞聖人の教えに触れるなら、親鸞会がイチ押しですかね。
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。前回に続き、報恩講で聞いた内容について。
親鸞聖人は人生を「難度海」と言われている。「渡ることが難しい海」と書いて「なんどかい」。それは「苦難、困難、災難」の波に翻弄されるから。そして私たちが気をつけなければならないのは「有頂天」の時。有頂天がいちばん危ないということを、教えてもらいました。
有頂天とは、山の頂上に有るということですよね。「人は山の頂上に登ることはできても、そこに長くとどまることはできない」といわれます。頂上まで達したら、あとは降りるしかない。転落するしかない。人生でも何もかも調子のいい、絶好調のときほど、足下をすくわれやすい。……うーん、間違いない真理だと思います。
親鸞会のお話では、シルバーウィークにあった川釣りボートの転落事故などを例にお話されましたが、最高に幸せな瞬間から一転して地獄を味わう火宅無常の世界の恐ろしさ、幸せのもろさ、はかなさ、不確かさに、気づかぬわけにはいきません。
そんな難度海に、そんな難度海を、明るく楽しく渡す「大船」がある、というのが、親鸞聖人90年の教えなんですね!あれれ、「念仏称えたら誰でも極楽」という世間の常識とはずいぶん違う印象です。ボクも驚きの連続でしたが、親鸞聖人の教えに触れるなら、親鸞会がイチ押しですかね。

« Previous Entries