4月 25

親鸞会で聞いたお話の感想をつづっています。
今回は、めっちゃまじめに書きます。

人生は、川下りの船に例えることができる。今、生きているということは、船に乗って川をくだっているようなもの。

船の中では、儲かった、損した、好きだ、嫌いだ、と泣いたり、笑ったりして過ごしている。消費税増税、TPPをどうする、憲法を改正しようと騒いでいるのも、みんな船の中の出来事。

しかし、この川の行く先はどうなっているのかというと、滝つぼである。死という滝つぼに向かって、船は進んでいる。動かしがたい現実だが、逃れるすべがないから、どうしようもないとあきらめて、船の中で、いかに楽しむか、ということに没頭しようとしているのが、日々の営みのすべてではないだろうか。

しかし、100%未来に滝つぼに落ちるという一大事を抱えているために、何を手に入れ、どんなことをしても、心からの安心も満足も得られない。未来が暗いから、現在が暗い。何千年前も今も、それは変わらない。

親鸞会のお話では、1300年前の中国の善導大師という方が、
「四方八方眺むれど、ただ愁嘆の声のみぞ聞く」
と言われていると、聞かせてもらいました。
1300年前の人も、ため息をついていたけれど、今日の日本での自殺者が年間3万人近くあり、ストレスや心の病はむしろ、増加するばかり。愁嘆の声は変わらないようです。

この、悲劇的な状態を解決するには、どうしたらいいのか。
「滝つぼに落ちない船に乗り換えればよいのだよ」と教えられているのが、親鸞聖人。
「そんな船があるんですか」
「あるんだよ。だから、あきらめなくていいんだよ」
と親鸞聖人はいわれている。

僕は、心底、感動しました。
これからも、親鸞会で、親鸞聖人の教えを続けて聞いていきたいと思う。

3月 14

親鸞会で聞いたお話の感想をつづっています。

いきなりですが「凡夫」とは、平凡な夫ということではなく、「人間」のことを、仏教で「凡夫(ぼんぶ)」と言うそうです。

今回のテーマは、タイトルの通り「凡夫には、まことの心がない」ということ。これは、たぶんお話のメインではなかったのですが、僕が大変心に残った内容です。

人間に、まことの心がなかったら、どんな心があるのかということになりますが、「不実の心」です。不実とは文字通り、真実(まこと)ではない(不)ということ。言い換えれば、うそいつわりの心しかない。。。こう聞いて、皆さんはどう思われるでしょうか。
「えー、そんなバカな!!そんなこと言っていいのか!」
とおっしゃる方もあるかもしれません。
「いやあ、その通りだよなあ」
とおっしゃる方もあるかもしれません。
お釈迦さまは、次のように教えられているそうです。

「心口各異 言念無実」(しんくかくい ごんねんむじつ)

心と口はおのおの異なり、言いっていることにも念っていることにも、実(まこと)が無い。

親鸞会のお話では、こんな例を聞きました。
赤ちゃん連れの親に会った時、どんなおかしな顔をしていても「まあ、かわいらしい赤ちゃんだこと」と口では言う。心では「なんじゃ、あの顔は。どっちに似たのか知らないが、かわいそうにのう」と思いながら、口では思ってもいないことを言っている。思ったことをそのまま口にしたら、人間関係が大変なことになりますから、そうせざるをえないのだけれど、これと同じようなことって、よくありますよね。

人間関係を保つためといいながら、うそで塗り固めて、しまいには何が本心かさえ分からなくなる。いや、まことのない自分の心のすがたが知らされてきます。

自分はこれだけ苦労した、と話をするのは、心と口が一致しているように思いますが、「どうだ、すごいだろう」と認めてもらいたい心を隠して言っているので、やはり、心口各異です。

他人のことはほめているようで、けなしている。自分のことは卑下しているようで自慢している。日々、口から吐いている言葉と心を見つめれば見つめるほど、「心口各異 言念無実」のお釈迦さまの一言が身にしみます。

親鸞会で仏教のお話を、もっと聞いていこう。

1月 31

親鸞会で聞いたお話の感想をつづっています。

ついつい、話が長くなってしまいましたが、最後です。

自己を映す鏡に3つ考えられるが、そのうち他人鏡と自分鏡は、正しく自己を映してはくれないことをみてきました。そこで残る鏡は、「法鏡」です。

すみません、法鏡って何ですか?
はい、仏教のことです。
えっ、仏教がどうして法鏡なんですか。っていうか、法鏡ってどんな意味ですか?
はい、法とは真実ということです。真実とは、三世十方を貫くものをいいます。三世とは過去、現在、未来で「いつでも」ということですね。十方とは東西南北上下とその間四方で「どこでも」ということですから、いつでもどこでも変わらない、間違いのないものをいわれます。
つまり、法鏡とは、三世十方を貫いて変わらない真実の自己を映す鏡という意味ですね?
そうです。そして、それこそが、お釈迦さま45年間の教え、すなわち仏教なんです。
ということは、お釈迦さまが仏のさとりを開かれて説かれた教えは、私たち人間の真実の姿が説かれているということであり、それは三世十方を貫いて、いつの時代、どこの国の人でも変わらない、人間の姿が説かれているということですか。
そういうことです。

って、会話風にしてみましたが、どんなもんでしょうか。
実際、「仏教とは一言でいうと何を教えられたものでしょうか」という弟子の問いに、お釈迦さまは「汝らに法鏡を授けるであろう」とおっしゃったという話も、親鸞会の友達から聞きました。

なるほど、仏教は、真実の私を映す鏡のようなものなのか。。。妙に納得。
仏教を聞くってことは、つまり、本当の自分を知るっていうことになりますよね。自分とは別の何か訳の分からない世界の話を聞くわけではないんですね。マジ、仏教観が変わりました。

今年も親鸞会のお話をたくさん聞いてみたい。

1月 3

親鸞会で聞いたお話の感想をつづっています。

今回は、前回の続きです。自己をうつす鏡に3つ考えられる、というお話。

一つ目は、「他人鏡」でした。これは、他人の評価した自分の姿です。これは他人の都合によってころころ変わる鏡ですから、真実の(いつでもどこでも変わらない本当の)自己をうつす鏡とはいえないことが、分かりました。

そこで二つ目の鏡は、「自分鏡」です。これは、自分の道徳的良心に照らして反省した自分の姿です。「自分のことは自分がいちばんよくわかっている」と思いたいところですが、この自分鏡は、真実の自己を、適正に評価できる鏡か、どうか。答えは、Noですよね。

人間の「自己評価の甘さ」は、あえて今さら強調するまでもないような気がしますが。
親鸞会のお話の中では、親ばかの例を通して教えてもらいました。
子供が悪いことをして警察沙汰になったりすると、必ず親は「うちの子にかぎって」と言うといいます。
女子高生が腹痛で病院に運ばれ、診察した医師が、「陣痛です」と答えると、母親が血相変えて「そんなはずはない!」と激怒したが、娘にといただすと事実を認めて、がっくりして産婦人科へ行った、とも。

自分の子供は、よいようにしか見られない。まして、自分自身のことは、なおさらでしょう。欲目という色メガネをはずして自己を見ることは不可能ですよね。

では、本当の自分の姿を知るには、どうすればよいのか。それが3つ目の鏡。長くなりますので、今回はこれくらいで。
今年も親鸞会のお話をなるべく多く聞いてみたいと思います。

11月 27

親鸞会で聞かせていただいたお話の感想を綴っています。

今回は、めっちゃ分かりやすかったです。テーマは「私」とはどんなものか。

汝自身を知れ、といわれますが自分を知ることは難しいですよね。

我が身知らずを教えた、こんな笑い話が。。。

ある泥棒の一味が、しこたま盗んできた財宝を囲んで山の上で車座になって宴会を開いていました。

「おい、この金盃で祝杯をあげようじゃないか」と泥棒の親分が、盗んできた金盃に酒をついで回した。ところが、回している途中で、その金盃がなくなってしまった。親分が立ち上がって叫んだ。「さては、この中に、泥棒がいるな!」

我が身が泥棒の親分であることを忘れなければ、言えることではありません(><)

「知るとのみ 思いながらに 何よりも 知られぬものは おのれなりけり」

うーん、深い歌です。自分のことは自分がいちばん知っていると思いがちですが、いちばん知らないのが自分。

なぜ、自分のことが自分に分からないのかというと、近すぎるからであり、自惚れているから、と聞きました。

「目、目を見ることあたわず、刀、刀を切ることあたわず」

私たちの目は遠すぎるものも見えませんが、近すぎても見えません。自分の目で自分の目を見ることはできませんよね。

どんなによく切れる刀も、刀自身を斬ることはできません。

近すぎて見られないものを見るには鏡を使うしかありません。

親鸞会のお話では、自己を知る鏡に3つ考えられると教えてもらいました。3つとは、他人鏡、自分鏡、法鏡です。

他人鏡とは、他人の目に映った自己の姿です。他人の評価した自分ですね。

「人が何と言おうと、我が道を行く」という人はまれで、この鏡を重視している人は圧倒的に多いと思います。

そして「あの人からあんなことを言われた」と泣いたり喜んだり、怒ったり落ち込んだり、を繰り返しております。

しかし他人鏡は、本当の自分を映す鏡かといえば、答えはNOといわざるをえません。

なぜなら、他人の都合によって、ゆがむ鏡だから。

「正も邪も 勝手に決める わが都合」という言葉も、親鸞会のお話の中で、知りました。

なるほど。禅僧・一休さんも、

「今日ほめて 明日悪く言う人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」

と嗤っています。そんなあてにならない他人鏡に一喜一憂している自分が悲しいところです。。。

(つづく)

10月 12

親鸞会で聞かせていただいたお話の感想を綴っています。

先日、親鸞会館で行われた親鸞聖人報恩講に参詣してきました。その中で、教えてもらった一つが、「摂取不捨」という言葉です。

摂取とは、「とる」ということ。病院で、「水分を摂取してください」などといわれます。摂も取も「とる」ということですが、摂という字には、逃げ回っているものを、とるという意味があるらしいです。逃げ回っている者を、幸せにおさめとり、決して捨てない。今日のわかりやすい言葉でいえば、「絶対の幸福」であると聞かせてもらいました。

なるほど、幸せにおさめとられても、しばらくして捨てられてしまっては、所詮がありません。幸せに捨てられるとは、幸せが流されたり、盗まれたり、壊れたりすることですね。でも、そんな幸せしか、この世の中には存在しないというのも、事実でしょう。

親鸞会のお話の中では、秀吉の例もだされました。天下を統一し、秀吉ほどのことを成し遂げても、臨終には、「露と落ち、露と消えにしわが身かな 難波のことも夢のまた夢」とさびしく死んでいます。蓮如上人という方は、「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず」といわれていると教えてもらいました。

そうすると、「摂取不捨」(=絶対の幸福)って、簡単な四文字の言葉ですけど、あらわしている内容は、すごいものがありますよね。さりげない短い言葉に、深い意味があるんだなあ、と感動しました。

摂取不捨の幸せになりたいものです。これからも親鸞会で続けて仏法を聞いていきますよ。

9月 28

親鸞会で聞かせてもらったお話の感想をつづっています。

私たちは何かを信じなければ生きていけません。

言葉をかえれば、何かをたよりにし、あて力にしなければ、生きていけません。

なるほど、たしかに歌謡曲でも演歌でも、「あなた一人を信じている」とか「未来を信じてる」と歌われています。

「信じる」というのは、ふつう、前向きな、いい意味の言葉として使われていますよね。

「日本の底力を信じている」とか。

しかし、もっと深く考えると、「信じる」ということは「疑いがある」から「信じる」のではないでしょうか。

えー?信じるって、疑わないことじゃないの?とみんな思うところだと思いますが。。。

しかし例えば、やけどした人は、「火は熱いと信じている」とは言いませんよね。

なぜか。疑いなく、熱かったと知らされているから。信じる必要がないからです。

逆にもし、「火は熱いものだと信じている」という人があれば、それは一度も火に触ったことがないけれども、熱いぞと聞かされている人でしょう。

そういう人は、熱いかどうか本当は分からない(疑いがある)けど、熱いと信じているわけですよね。

「信じる」という言葉は、疑いがあるから、信じる必要があるわけで、疑いようのないことなら、信じる必要がないわけです。疑いがあるということは、不安があると言い換えることもできます。

つまり。。。不安だから信じる。

しかし、私たちが信じている対象は、すべて無常のものですから、

いつ崩れてしまうか、壊れてしまうか、変わってしまうか、分かりません。

不安だから何かを信じなければいられないけど、崩れるものを信じているから不安がつきまとって離れない。

この人生の実相を、お釈迦さまは、「人生は苦なり」と教えられているんですね。

まさに、不安の出口がありません。じゃあ、どうしたらいいんですか?!

と問う私たちに、親鸞聖人は、「心を弘誓の仏地に樹てよ」とお答えになっていると親鸞会で聞かせてもらいました。

弘誓の仏地とは何か。

ここからのお話がまた、すごいんですけど……すみません、直接、親鸞会で聞いてください(^^)

9月 1

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
今回の質疑応答では、「趣味や生きがいの喜びは続かないというのは、これまでの人生を振り返ってその通りだと思いますが、なぜ、そうなってしまうのでしょうか?」
という、僕も聞いてみたかった、どんぴしゃの質問が出ました!

趣味や生きがいは人それぞれいろいろありますよね。
旅行や音楽、映画、スポーツ、読書、登山、食事、酒、料理、家庭菜園、ガーデニング、ダンスやカラオケ……などなど。

何十年も変わらぬ趣味をもっている人がうらやましい。僕なんか、本当に飽きっぽい。何をやってもすぐ空しくなってしまうので、その空しさをごまかすものはないかと、常に心は刺激を探し求めている気がします。

でも、たとえ何かすごくハマっているものがあっても、その楽しみが死ぬまで続くことはたぶんないですよね。

なぜ趣味や生きがいの喜びが続かないのか。それについて論理的に親鸞会のお話で聞かせてもらいました。

じつはこれ、聞きはじめのころに一度、聞かせてもらっていました。このブログにも書いていましたが、改めて聞かせてもらって、よく分かりました。

そう、僕たちの知っている楽しみは、「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」「意識」の楽しみしかないということですね。眼識とは目の楽しみ。きれいなものをみて楽しむ心。耳識は耳の楽しみ。心地よい音楽や声を聴いて楽しむ心。鼻識は匂いを楽しむ心。食事も香りが大事です。舌識は文字通り、舌の楽しみ、食べる楽しみです。身識は、肉体の爽快感。意識は読書などで得られる精神的な満足でしょう。

こうしてみてみると、最初に挙げた趣味や生きがいも、全部、これら「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」「意識」のどれかを楽しませるものであり、この中におさまってしまうことが分かります。

そして、これらの心は、肉体が滅びると同時に滅びるもの、つまり有限で続かないもの。そんな続かない心を楽しませようとしても続かない楽しみしか得られない。

でも、政治も経済も科学も医学も、その「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」「意識」をいかに満足させるか、そのために努力しているわけで、人間の一切の営みは、この中におさまってしまうんですね。

では、仏教はどうか?仏教は、これら滅びる心の満足の方法を教えるのではなく、永遠の生命を満足させる方法を教えられていることも、聞かせてもらいました。

ここからの話がすごかったんですけど、、、これは親鸞会のお話を直接聞いてください(笑)。

7月 24

親鸞会で聞いたお話の感想の続きです。

四苦八苦。いつでもどこでも、人間の受けなければならない苦しみを、八つにまとめて教えられたもの。

生苦・・・生きる苦しみ。

老苦・・・老いの苦しみ。

病苦・・・病の苦しみ。

死苦・・・死の苦しみ。

愛別離苦・・・愛する人や物と別れる苦しみ。

怨憎会苦・・・会いたくない人や物と会わねばならぬ苦しみ。

求不得苦・・・求めるものが得られぬ苦しみ。

五陰盛苦・・・肉体あるがゆえの苦しみ。

怨憎会苦で思い出すのが、いじめ。特に今、大津の中学生の自殺問題が大きく取り上げられている。

あれほど直接の暴行は受けなかったけれど、不良グループににらまれて学校にいくのが憂鬱でした。

見つからないように、ばったり会わないように、びくびくしていた。殺したら親に迷惑かけるしなあ、とか、いろいろ妄想していた(と思う)。

でも、愛別離苦や怨憎会苦は人だけのことではない、とも、親鸞会のお話では教えてもらいました。

例えば若さを失う老いの苦しみは愛別離苦であり、病気になって苦しむのは怨憎会苦ともいえますね。

一日一日人生の時間が過ぎ去り、死に向かっているのは時間との愛別離苦であり、死との怨憎会苦。

そう考えていくと、やっぱり、人生って苦しみにみちているのかなって、思いますよ。

その苦しみの人生を、明るく楽しくわたる大きな船があると、親鸞聖人は教えられている。。。

これはすごい希望だと正直、僕は思う。親鸞会で、続けて聞いてみたい理由はここにあります。

6月 28

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。

今回は「四苦八苦」。一般にもよく使われるけど、仏教の言葉だったんだね。

では、四苦八苦とは何か?

人間であるかぎり、逃れられない人生の苦しみを、お釈迦さまが4つに分けけられたのが「四苦」、それに4つ加えて教えられたのが「八苦」です。

「四苦」とは「生苦」「老苦」「病苦」「死苦」の4つ。(「生老病死」という言葉も、よく聞きますね)

この4つの苦に、「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」を加えたものを八苦という。

ふむふむ、親鸞会で勉強して一気にかしこくなった気がする。。。にしても、書いてみるだけで重苦しいなあ・・・。

お釈迦さまは、さとりをひらかれて、「人生は苦なり」と言われたそうだけど、人生は楽しいのか、苦しいのか。

「そこそこ楽しいよ」というのは、そう思わないと、自分が身もふたもなくなってしまうという事情もあるかも。

歴史に名前が残る人物、例えば芥川龍之介などは、「人生は地獄よりも地獄的である」と言っているし、

夏目漱石は、「人間は生きて苦しむための動物かもしれない」と妻への手紙に書いていたりする。

むしろ、人生の「ほんとうのこと」を言えると、歴史に名前が残る、ということかもしれない。。。

いや、人生の「ほんとうのこと」を聞かせてくれるのが、仏教かもしれない。

軽薄な笑いとは無縁だけど、仏教を聞くことには別の安心感があるね。正気に戻れる場所があるというか。

自分の人生を静かに見つめる時間がキープされるというか。

そんなわけで、これからも親鸞会でお話を聞くご縁を大切にしていきたい。

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