4月 27

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っているところです。

今回、特に心に残ったのは「難度海」という言葉。「難度海」とは僕たちの「人生」のことだと教わりました。

難度とは、渡ることが難しいということで、苦しみということ。

何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか分からないから、苦しいはずです。

しかも苦しみの波が次から次とやってくる人生を、親鸞聖人は「難度海」といわれている。。。と理解しました。

その時の親鸞会のお話では、こんな内容もありました。

「はたから見ていると分からないが、「人からこんなことを言われた、あんなことを言われた」といって苦しんでいる。人の言った言葉で苦しんでいる。

他人が聞けば、「そんな小さなことで苦しんでいるのか」と思うようなことでも、その人にとっては深刻で、暗い生活になっている。

人がああいった、こういった、プライドを傷つけられた・・・毎日、いろんな人からそういうことを聞かされて苦しんでいる。

そんなことが絶える日があるだろうか。。。」

うーん、いわれてみれば、こんなことが、絶える日はなさそうだ。

苦しいから何かにすがろうとする。難度海に浮いている板切れや丸太にしがみつく。なるほど。

例えば、東京スカイツリー。

高いところにのぼって景色をみたから、何がどうというわけではないのだけれど、のぼってみたいと思わずにいられない。

でも、展望台に3日間いたらどうか。そりゃ飽きるよね。1か月いたら。助けてくれとなるかもしれない。

僕らの知っている楽しみって、こんな程度のかわいいものなんだ。だから丸太や板切れか。なるほど。

それで、親鸞聖人は、丸太や板切れとは比較にならない、難度海を明るく楽しく渡す大きな船がある、と教えられた方なんだということが、分かりました。

その船について、親鸞会で、これからもっと詳しく聞いていかないとね。

4月 2

お久しぶりです。

この間も、親鸞会のテレビ座談会に参詣させてもらいました。そこで勉強したのが、「四顛倒の妄念」。

人間には、四つのさかさま(顛倒)な迷った考え(妄念)があると仏教で説かれているそうです。

その四つとは、

(1)無常なのに「常」なるものだと思っている

(2)人生は苦なりなのに人生は「楽」しいものだと思っている

(3)無我なのに「我」というものがあると思っている

(4)人間の肉体は不浄なのに「浄」らかなものと思っている

と(うろ覚えの理解で、やや自信ないですが)いうことです。

特に感じたのは(1)。

人間は、いつか死ぬ。自分もいつか死ぬ。みんな分かり切っている。

でも、明日死ぬとはだれも思っていない。ということは明日になれば、また明日死ぬとは思わない。

この心は、どこまでいっても自分は死なないと思っている心と、親鸞会で教えてもらい、驚きました。

たしかに、東日本大震災で犠牲になられた方のだれ一人、前日まで、明日死ぬと思っておられた方はいないはず。

ということは、今、僕が「明日は死なない」と思っている心は迷いなんだ。。。

無常ということぐらい、分かっているつもりだったけど、僕の心は、死なないつもりでいる。

顛倒の妄念か。深い。

親鸞会でもっと勉強していきたいと思う。

2月 29

親鸞会で聞いたお話の感想をつづっています。

先日、テレビ座談会で、因果の道理について聞かせてもらいました。

じつは何回か聞いたことはあったけど、別の角度から聞くと理解が深まりますね。

因果の道理とは、「あらゆる結果には因と縁がある」ということだと聞きました。

例えば、米という結果の因は、モミダネ。縁は、水や日光、空気、土など。

因だけでも結果は現れないし、縁だけでも結果は現れない。

どんな結果にも、必ず因と縁がある。「これだけは因だけで結果が現れた」「縁だけで結果が現れた」というものが本当にないか考えてみなければならないと聞きましたので、考えてみましたが、うーん、今のところ思いつきません。。。(因が分からないということは多々あり)

この因果の道理から、次のようなことがわかると教わりました。

縁は同じでも、因が変われば、結果が変わる。

米の品種によって、味が違いますしね。

因は同じでも、縁が変われば、結果が変わる。

永久凍土に埋まっていた3万年前の花の種が、氷から取り出したら花を咲かせたというニュースが、例としてあげられました。

因果の道理って、おもしろいですね。

親鸞会でもっと詳しく聞いていきたいと思います。

1月 20

これは直接、親鸞会で聞いたお話ではありませんが、聞いた話をもとに思ったことを書いてみます。

門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

と一休は歌ったそうですが、年があけたということは1年生き延びたともいえるし、1年また死に近づいたということだから、あけましておめでとうともいえるし、おめでたいとはいえないというのも、本当だと思います。

昨年3月には東日本大震災がありました。

今年こそはいい年にという気持ちもみんなあると思うけど、1月17日には阪神大震災の追悼で、

年明けからどこか「祈り」ムードなのではないでしょうか。

死者への祈りであると同時に、自分自身もやがて死ぬ存在であり、今年がそうかもしれないと思えば、改めて、一休の歌が、身につまされます。

じゃあ、本当に、「めでたく」するにはどうすればいいのだろうか。。。

親鸞会の人からもらった葉書に、

「元旦や おめでたいとは金剛の信を獲たる人にこそあれ」

という言葉がありました。

金剛信(絶対の幸福)を獲得すれば、一日一日が無量光明土(限りなく明るい世界)へ近づく日々になる。この身になることこそ、人生の目的と、書いてありました。

命のはかなさを見つめて、今年も親鸞会で、仏法を聞いていきたいと思います。

12月 10

親鸞会で聞いたお話の感想をつづっています。

つい先日の12月4日、親鸞会館のご法話で、お釈迦さまの「四門出遊」の話を聞きました。

あ、これ知ってる!……と思いました。たぶん、高校の倫理社会の教科書にのってたんだと思います。

インドの国王の子供として生まれられ、シッタルタ太子といわれていた若いころの話ですよね。

四門とは城の四方の門。

あるとき、東の門から出られた太子は、老人を見ました。城の中では若いものに囲まれていましたので、歯は抜け、腰は曲がり、髪は白くなり、よぼよぼと歩く老人を、このとき初めてみたのでした。
「あれは何だ」と側近に尋ねると、「あれは老人でございます」と側近は答えました。「私もあのようになることがあるのか」「はい。すべての人はやがて年老いる運命からは逃れられません。王や貴族といえども同じでございます」と側近は答えました。それを聞いて太子は深く考え込まれました。

またあるとき、南の門を出られると、病人を見ました。苦しみもだえる病人の姿をみて「あれはどうしたことか」と側近に尋ねると「あれは病人でございます」と側近は答えました。「私も病気になることがあるのか」「はい。人間はいつどんな病気にかかって苦しまねばならないか分かりません」と側近は答えました。それを聞いてまた太子は深く考え込まれました。

またあるとき、西の門をでられると、葬式の列にでくわしました。「あれは何だ」「はい、あれは死人でございます」「私にも死ぬことがあるのか」「はい。生まれたからにはやがて死なねばなりません。どんな人も死を免れることはできません」と側近は答えました。それを聞いて太子はまた、深く考え込まれました。

最後に北の門をでられたとき、修行者に出会いました。「あれは何か」「はい、あれは修行者でございます。生老病死の苦しみを超える幸せを求めて修行している者です」と側近が答えると、シッタルタ太子は、これこそ自分の求めるべき道であると思われたといいます。

うーん。老病死の苦しみは、古今東西、変わりませんよね。

親鸞会のお話では、これに生苦を加えて、四苦ということも聞きました。四苦八苦の四苦ですよね。

生きる苦しみ……生きることが苦しみなんですね。。。実感として大きいのは人間関係の苦しみでしょうか。100万人うつ時代といわれていますが。人が集まってくらしているかぎり、どんなところでも、なくならない苦ですよね。

あらためて考えさせられました。つづけて親鸞会のお話を聞いていきたいと思います。

11月 30

お久しぶりです。親鸞会で聞いたお話の感想をつづっています。

じつは、似たようなお話を2回、聞きました。

それは、どういう内容かというと、

「ご恩返ししようと思うときに、いちばん大切なことは何か」

「親に孝行しようとするときに、いちばん大切なことは何か」

「人に何かプレゼントするときに、いちばん大切なことは何か」

「人に言葉をかけるときに、いちばん大切なことは何か」

と列記することができると思います。

その答えは、親鸞会で聞いたお話では、

「相手の喜ぶことは何かを知ること」でした。たしかに、

相手の喜ばないことをしても、それはご恩返しにならないし、

親の喜ばないことをしても、孝行にはならない。

相手の嫌いなものをプレゼントしても、相手は喜ばないし、

相手の聞きたくない言葉を言っても、相手は満足しない。

そして、どれだけそのためにこちらが苦労しても、その苦労はムダになります。

なるほど~。

これは身近な例であって、親鸞会で聞いた本題のお話はこのあとですが、ぼくはこれでもうおなかいっぱい。

11月 1

お久しぶりです。いや、久しぶりに親鸞会のお話を聞かせてもらいました。

「歎異抄」についてのお話でしたが、その解説の中で、でてきた親鸞聖人の言葉。

「ただ仏恩の深きことを念じて、人倫のあざけりを恥じず」

これは、親鸞聖人が、29歳の時、阿弥陀仏の本願に救われ、絶対の幸福(仏になれる身)になられてから、90歳で亡くなられるまで、大活躍されたその精神をあらわされたものだと、僕は理解しました。仏恩とは、絶対の幸福に救ってくださった阿弥陀仏のご恩ということ。

このときの親鸞会でのお話では、「70億の人類は、いったい、何に恩を感じているだろうか」と問いかけられました。

「えっ?」 絶句。

一般的な答えとして考えられるのは、親、学校の先生、友人、病気をなおしてくれたお医者さん、自分の欲しいものやお金をくれた人……などでしょうか。

しかし、親の恩を本気で感じているだろうか。感謝という言葉は、なんとなく日常使っていますが、心から、ずっと恩を感じ、ずっと感謝の気持ちを持ち続けている相手があるだろうか。そんなことを考えていると、だんだん、「あ、おれって何にも恩を感じて生きてないんだ」ということに気が付いてしまいました。これは、われながら衝撃でした。

恩知らずな人間になりたくない、という人並みな気持ちをもちながら、その実体は……。瞬間的に恩を感じることはあっても、ずっと恩を感じて、それに報いようと思って生きるなんて生き方は、とても及ばない。

そんなことを考えると、親鸞聖人の「ただ仏恩の深きことを念じて、人倫のあざけりを恥じず」という短い宣言は、じつはすごいことを言われているんじゃなかろうか、という気がしてきました。いや、そうに違いない。

事実、親鸞聖人は、生涯、人倫のあざけりを浴びておられるけれど、その中を、僕らと同じように、人からほめられたい、悪くいわれたくない心は山ほどあっても、それを恥とせず、屈せず、突き進まれたのは、「ただ仏恩の深きことを念じて」といわれているように、阿弥陀仏のご恩に報いるという太い太い柱があったからなんだ。と考えると、そんなふうに、自分もなりたいと、惹かれずにおれない気持ちになりました。いやあ、親鸞会のお話を聞いて、またまた、すごいパワーをもらいました。

9月 30

親鸞会で聞いたお話と感想をつづっています。

僕たちを絶対の幸福にする力。それがあるらしいということが、最近、わかってきました。

それが「弥陀の誓願」とか「弥陀の本願」と呼ばれるものらしいということも。

弥陀の誓願とは、阿弥陀仏という仏の誓い(約束)であり、その内容が、

「すべての人を必ず絶対の幸福にする」ということ。

そんなの、作り話でしょ、と思うところですが、そのような反応も折り込み済みで、阿弥陀仏は、

私たちの本願に対する疑いを晴らすために「若不生者不取正覚」と、誓われているという。

これは、もし、約束どおり絶対の幸福に生まれさせることができなければ、この弥陀は命を捨てる、

と命をかけて、必ず生まれさせてみせると約束されている言葉。

私たちが必ず疑うから、その疑いを晴らすために、命をかけておられると聞きました。

それを親鸞会の法話では、逆子のたとえで、聞かせてもらいました。

町の産婦人科にいったら、こんな逆子は見たことない。とても生まれさせることはできません、よそへいってくださいといわれた。そこで県立病院へいったが、断られた。大阪の病院でもだめだった。東京の日本一の病院でも、断られた。そこでアメリカの世界一の名医を紹介されてアメリカへいった。その名医が、こんな難しい逆子はみたことがないが、私が見捨てたら、あなたは死ぬしかありません。だから、私が必ず生まれさせてみせましょう、もし無事に生まれさせることができなければ、私は医者をやめて、田んぼか畑か、ほかの仕事につきます、というようなもの。そして、おぎゃっと生まれた時に、医者の腕が発揮される。若不生者の念力が発揮されるとき。

このあたりで僕の頭は、パンクしてしまいましたが、なんかすげえ、と思ったのはたしかです。

阿弥陀仏の本願って、すごくキーワードな気がします。もっと親鸞会で学びたいと思います。

8月 3

しばらく前に親鸞会でお聞きしたお話です。

親鸞聖人は4歳でお父さんを、8歳でお母さんを亡くされ、今でいえば小学2年生で両親を失われたことになります。そしてわずか9歳で出家されたのですが、その時に詠まれたといわれる歌が、

「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

私たちは「明日あり」と思って生きています。その心は正しいのか?と問われました。

もし「明日あり」の心が間違いなければ、だれも死ぬ人はいない。

「明日あり」と思う心は、明日になればまた「明日あり」と思い、永遠に死なないと思っているのと同じ。

現実には、「明日がなかった」人たちは、私たちのまわりにあふれています。

東日本大震災しかり、中国の列車事故しかり。考えてみれば毎日、どこかで車の事故で家族が亡くなったとか、登校の列に車がつっこんだとか、悲惨なニュースを聞かない日はありません。そして、自分にもまた、いつ、そういうことが起きても、まったくおかしくはありません。

そう考えると、「明日あり」と、信じ込んでいきている心は、じつは深い深い迷信であって、「明日はないかもしれない」のが本当ではないでしょうか。

親鸞聖人の歌は、そういうことを僕たちに教えてくれているということを親鸞会のお話の中で、教わりました。

また、その時、お釈迦さまが無常(死)に対する敏感さを四通りの馬に例えて教えられた、四馬の比喩を聞かせてもらいました。

それがこちら。
(1)鞭影を見て驚く馬。
   落花や火葬場の煙を眺めて、自分の死に驚く人。

(2)鞭、毛に触れて驚く馬。
   葬式や霊柩車を見て、自分の死に驚く人。

(3)鞭、肉に当たって驚く馬。
   親戚や隣家の人の葬儀で、自分の死に驚く人。

(4)鞭、骨にこたえて驚く馬。
   肉親の死にあって、自分の無常に驚く人。

自分はどれだろう?と思います。東日本大震災から間もなく5か月がたとうとしています。あの時、痛烈に感じたはずの無常をケロッと忘れて、日々、「明日あり」と思って生きている。なんて、自分は鈍感な馬なんだろう。無常ということについて、もっと親鸞会で詳しく聞いていきたい。

7月 13

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っています。

先日、親鸞会館で、「正信偈」について聞かせてもらいました。その中の一つ。

仏教でいわれる「真実」と、世間一般に使っている「真実」という言葉の違いについて書きます。

世間一般に使う「真実」は、事件の「真相」や「事実」みたいな意味で使うよね。

「不都合な真実」とか。

それに対して、仏教でいう「真実」は「三世十方を貫くもの」だけに使われるらしいです。

三世十方を貫くって、なんだそりゃ。

三世とは、過去、現在、未来ということで、三世を貫くということは、いつでも変わらない、間違いないもの。

もっと具体的にいうと、2600年前のお釈迦さまの時代も、800年前の親鸞聖人の時代も、現代も、

これから何千年後も、変わらない、間違いないものを「三世を貫くもの」というらしいです。

十方とは、東西南北上下に4つの方角を追加して十方。十方をあまねく、とこちらはいうようですが、つまり、

これは、どこでも変わらない、まちがいないものということです。

アメリカでも、日本でも、中国でも、インドでも、地球以外でも、どこでも変わらないものが、十方をあまねくもの。

三世十方を貫くものとは、いつでもどこでも変わらない、まちがいないもの。

そういうものだけを、仏教では、真実というと聞きました。

なぜ、真実の話がでてきたかといいますと、「正信偈」の中に「修多羅によりて真実を顕す」という言葉が

あるからです。「修多羅」とは「しゅたら」と読み、お経のこと。英語の「スートラ」はここからきているのかな。

お釈迦さまの経典を根拠として、真実を明らかにされた、という意味です。

じゃあ、その明らかにされた、三世十方を貫く「真実」って何だろう。。。はい、これからそこを親鸞会で聞いていきます。

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