2月 8

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っています。今回心に残ったのは「現在は過去と未来を解く鍵」というお話。

お経の中に、こんなお言葉があるそうです。

「過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。
 未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」

その前におさらい。どんな小さな出来事にも、必ず原因がある。原因なしに起きる結果は一つもない。

まかぬタネは生えぬが、まいたタネは必ず生える。

いわゆる原因と結果の法則です。

その関係は、善因善果、悪因悪果、自因自果(自業自得とも)。

親鸞会の知人からも何度か聞かせてもらいました。最初は「当たり前じゃない?」「小学生でも知っているよ」と思ったりもしましたが、これがとてつもなく深いということに最近、だんだん気づき始めました。

ところで、この因果の法則を言い換えるとどうなるか、考えてみましょう。

・まいたタネに応じたものしか、生えてはこない。
・生えてきたものをみれば、まいたタネが分かる。
・まいているタネをみれば、何が生えてくるか分かる。

因(タネ)とは私たちの行いのこと。結果とは幸不幸の運命だから、

・自分の行いによって、自分の運命が決まる。
・現在の運命をみれば、過去に自分のやった行いが分かる。
・現在の自分の行いをみれば、未来の自分の運命が分かる。

そこで、「過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」。現在の自分を見れば過去も未来も分かる。ビジネス界にはしゃれた言い方を考える人があるもので、「あなたは行動を選択するときに、結果も選択しているのだ」と、どこかで読んだ記憶があります。ただ、仏教のすごいところは、この原因と結果の法則が、この世にとどまらないところ。(ただ今、勉強中)。親鸞会で続けて聞いていきたいと思います。

1月 20

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っています。
今回、心に残ったのは、「仏教は鏡」というお話です。鏡といえば、自分の姿をうつすものですよね。仏教はその「鏡」なのだそうです。「法鏡」といわれます。「法」とは「真実」ということで「真実の鏡」。ということは……そう、仏教を聞くということは、自分の本当の姿を知らされる、ということになりますよね。人間の真実の姿を説かれているのが仏教、ともいえるでしょうか。
仏教と聞くと、「難しい!」というイメージが先行しがちでしたが(私だけ?!)、親鸞会で、仏教は鏡だと聞いて、なんだか、とっても身近なものに感じられてきました。生きている中で、私たちが知りたいことは、いろいろありますが、「自分を知りたい」という気持ち、強くありませんか。やっぱり何より自分が大事だからでしょうか。(集合写真で、まず探すのは自分といわれますし。えっ、関係ない?)あまりに近すぎて分からないのが自分自身ですよね。知りたいのに近すぎて分からない。だから鏡が必要なんですね。もちろん、どんな鏡でもいいわけじゃない。自分を正確にうつす鏡でなければダメ。そんな真実の自己をうつす鏡が、仏教なんだよって。なんか、うれしい。親鸞会で続けて聞いていきたいと思います。

12月 25

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っています。

テレビ座談会って個人的にすごくいい、です。初心者も分かりやすくて。ただ、聞いた内容をちゃんと再現できるか、どうかは別なんですけど。先日は仏教学ということで「断見」「常見」という言葉を習いました。
 断見とは「死後はない」という考え方。「無の見」ともいわれます。常見とは「死後、固定不変の霊魂が存続する」という考え方。「有の見」ともいうそうです。そしてなんと、いずれも仏教では間違いとされるそうです。(真理に外れた教えということで「外道」といわれる)

 死んだらどうなるのか。だれしも一度は考えますよね。「大霊界」とか「死後世界地図」とか「生まれ変わり」といってイメージしているのは、おそらく「有の見」でしょう。神社に死んだ人を祭っているのもそう。「死後は無い」という「無の見」は分かりやすいですね。皆さんはどっちだと思っていました(思っています)か。「わからない」という立ち位置もありますよね。それが謙虚というか。しかし考えてみれば必ずぶち当たる死。人間って確実な未来が分からない中で生きてるんですね。別の時の親鸞会のお話で、死んだらどうなるか分からない心を「無明の闇」と言われ、それが苦しみの根元だと聞いた覚えがあります。ちょっと脱線しましたが、そんなことも考えました。

 それにしても、死後、固定不変の魂が続くというのも間違い、死後は無いというのも間違いなら、本当のところは何だろうか、という疑問が当然わきますよね。この二つ以外、普通考えつかないでしょ?常見、断見、どちらも間違い、と教えていると知って、仏教ってなんかスゴイ……と感じました。
 で、本当のところはどうなのかって?はい、まだ勉強不足で、そこまで説明できません(汗)。親鸞会でひきつづき、学んでいきたいと思います。

11月 25

親鸞会でお聞きしたお話を綴っています。先日、座談会に参加させてもらいました。いわゆる「質疑応答」です。そこで「八識」について質問された方があり、詳しく聞かせてもらいました。

仏教では「心」といっても、いろいろあると教えられ、八つに分けて「八識(はっしき)」と言われるそうです。「識」というのは「心」のことですね。
その八識の中で、「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」の五つを「前五識(ぜんごしき)」といわれるんです。ちょっと、文字にすると難しく見えますが、とても分かりやすいお話でしたよ。

「眼識(げんしき)」とは目の心とあるように、色や形を見分ける心。私たちは、いろいろなものを目にしますが、嫌なものは見たくありません。(食事時に、殺人事件のニュースって、やめてほしいですよね。自分が見なければいいんですけど)。そこで、目を楽しませてくれるものを求めます。例えばきれいな風景や、かわいい動物、美しい女性など。しかし、どんなにきれいなものといっても、ずーっと見て飽きないものはない、と教えてもらいました。確かにその通り、ですよね。「虹を15分眺める人はない」ということわざを、どこかで聞いたことがあります。世界遺産をめぐる旅がはやっていますが、たぶん、現地に住んでいる人には見慣れた風景で、初めて訪れた人の胸におこる感動は味わえないでしょう。そういえば、親鸞会館の近くにも名勝・雨晴海岸があります。海の上に3000メートル級の山々がそびえる、世界でも3カ所だけの絶景とか。そんな海岸に住んでいたら、毎日絶景に感動の人生となるでしょうか。答えはNo。やがて見飽きて、ただの海になるそうです。現地の人が言っているので間違いありません。私も昔は、海の見える家に住むのが夢でした。そんなところに住んだらどんなに幸せだろうと思っていましたが、眼識の実態を知れば、それは幻想と認めざるをえません。早く気づいてよかったというべきでしょうか。どんな美しいものも、見続けたら飽きる。だから私たちは、次から次へと別のものを追い求めることになります。夫婦にあてはめるとちょっと危ないですけどね。

「耳識(にしき)」とは耳の心。音を聞き分ける心です。これも、どんなに心地のよい音楽でも、ずっと聞き続けても飽きないものはないでしょう。だから常に新しい音楽が生み出され、何百曲もIpodにいれて、シャッフルしています。

「鼻識(びしき)」とは鼻の心。においをかぎ分ける心です。どんないい香りも、ずっとかいでいたら、そのうち鼻が慣れて最初の心地よさは感じられなくなります。だからこそトイレに入っても救われる、と聞きました(笑)。いい香りだけでなく、臭いものでも、鼻が馬鹿になって平気になるということですね。ともあれ鼻識の楽しみも一時的なものです。

「舌識(ぜっしき)」とは舌の心。食べる楽しみです。どんなに美味しい物でも、食べ続けたら飽きます。私は、おいしいものを見つけたら飽きるまで食べる主義ですが、その結果、やがて足が遠のき、見向きもしなくなったものがいくつあることか。小さいころ、グラタンが大好きで食べ続けた結果、今は逆に全く食べられなくなってしまったという、気の毒な知人がいます。これは極端な例としても、毎日同じメニューを食べ続けたら、どんなに美味しくても最初の感動はなくなるでしょう。

「身識(しんしき)」とは身体の心。寒、暖、痛、快などを感じる心です。これも、いつまでさわっていても心地いいというものは、ありません。

こうしてみてみると、「前五識」の楽しみって、はかないですよね。刹那的というか。しかし考えてみれば、毎日私たちが追い求めているものって、ほぼこれしかないんじゃないかと思います。「楽しみ」というキーワードを頭の中で検索して出る項目は、大体、前五識のどれかに分類できそうです。そして、あれも飽きたし、これも飽きた、とだんだん絞込み検索されて「何か、楽しいことない?」と言っている。正直、そういうのはもういいよっていう感じが、するわけです。もっと違う幸せを求めたいというか。仏教で問題にしているのは、そんな前五識の楽しみではなくて、もっと深い心にあるようです。だから魅かれるのかもしれませんね。ひき続き、親鸞会で詳しく聞いていきたいと思います。

10月 23

今回も親鸞会で聞いたお話の感想です。すごいお話を聞かせてもらいました。

「阿弥陀仏に救われた人は、お釈迦さまはじめ大宇宙の仏さまから、ほめられる身になる」と、親鸞聖人は教えられているのです。これを「諸仏称讃の益」(大宇宙の諸仏からほめられる幸せ)といわれています。

確かに私たちは、ほめられると、うれしいですよね。日本の子供たちは自己評価が低いと聞いたことがありますが、3歳の子供に「ありがとう」とか「がんばったね」というと、すごくうれしそうな表情をします。逆にほめられることがないと、あまり元気もなくなり、「どうせ自分なんか」と、気持ちが沈んでいってしまうのかもしれません。それは大人になっても同じでしょう。学生のころ、「さすがだね」とよくいってくれる先輩がいました。そう言われると、元気がでました。子供からほめられても、悪い気はしないものです。とはいえ、もちろん、だれからほめられるか、によって、うれしさはまたずいぶん違うでしょう。その道のプロの人、自分の尊敬する人からほめられたら、天にも昇る気持ち、ではないでしょうか。そこから、どんな困難もくぐりぬける元気、勇気がわき出てくるに違いありません。

親鸞会では、親鸞聖人のご生涯も教えてもらいました。31歳の破天荒の肉食妻帯の断行、35歳の越後流刑、烈烈たる非僧非俗の宣言、親鸞聖人のたくましさは、諸仏称讃の幸せにあったと聞き、とても分かる気がしました。仏さまにほめられる身って、すごいですよね。私もそんな身にならせていただきたい!と、強く思いました。

阿弥陀仏に救われるとはどんなことなのか。ここがすごく大事ですよね。これからも、親鸞会のお話を続けて聞かせてもらおうと思います。

9月 30

今回も親鸞会で聞いたお話をもとに、感想を綴ってみます。

「私たちの人生はシャボン玉のようなもの」という例えを、聞かせてもらいました。それはつまり、「はかない」ということですよね。ぷーっと膨らませたシャボン玉は、しばらく浮遊して、ぱっとはじける。長くもってもせいぜい、屋根の上まで。空高く浮き続けているシャボン玉もなければ、昨日から浮いているというシャボン玉もない。

人生80年、日本では100歳以上のお年寄りも4万人を超えたそうですが、寿命が延びたといっても、過ぎ去った人生をみれば、あっという間にしか、感じられないのではないでしょうか。ウォーキングしたり、コレステロール値に気をつけたり、健康に気遣っている姿は、あたかもシャボン玉の膜がはじけないようにいたわり、努めているようで、なんだか切なくなります。

しかし、親鸞会でお聞きしたシャボン玉の話には、続きがあります。それは、私たちの生命は永遠であるということ。果てしない過去=無始昿劫(むしこうごう)=から、私の生命には歴史があり、果てしない未来へと流れていると仏教では教えられているそうです。そんな悠久の時間の中で、人間に生まれた50年100年の人生は、まさに、シャボン玉のように、はかないものですね。

そして私たちは、この世だけでなく、果てしない過去からずーっと罪悪を重ねてきた凡夫なのだと言われている善導大師という方の言葉を、聞かせてもらいました。

「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、

昿劫より已来、常に没し、常に流転して、

出離の縁有ること無し」と深信す

このような果てしない過去から罪悪を重ねてきた正真正銘の凡夫が私なのですね。この世だけで私をとらえていましたが、親鸞会でお話を聞かせていただいて、私には果てしない魂の遍歴があることを感じました。

7月 6

毎回ですが、今回も親鸞会で聞いた仏教のお話を書いています。

今回、親鸞会で聞いたおはなしは、「人生の目的」についてのお話なのです。

近年、この日本で自殺する人は、年間3万人を越えており、それが10年以上続いているそうです。
ということは、10年間で30万人!!

これはとても大変なことですね。
原因としては、病気、人間関係、失恋、借金などなどいろいろあります。
最近ならマイケルジャクソンの後追い自殺も問題になっているようです。
http://www.zakzak.co.jp/gei/200907/g2009070236_all.html

でも、共通していえるのは、「どうしてこんなに辛いのに生きていかねばならないの?」ということではないでしょうか?

幸せだから自殺するなんて人はいないと思います。
病気だから、人間関係に悩んでいるから、失恋してしまったからという何からの原因があるからこそ人は自殺を考え実行してしまうのではないでしょうか?

でも、辛くても人生には意味がある。
人間に生まれた今しか果たせない人生の目的があるのです!!

このことが明らかになってはじめて、自殺の根本問題が解決するのではないでしょうか。
悩んだら、いろんな相談所にいくのもいいですが、親鸞会で、人生の目的を聞いてみてはいかがでしょう?
私も親鸞会で仏教のお話を聞いている間に、自分の人生や考え方、存在そのものを深く考えるようになりました。
できることなら、この教えを生まれながらにしてもち合わせて成長していきたかったと思うほどです。

6月 28

先日、親鸞会館で「音羽の明詮」についての話があり、その話を聞くため親鸞会へ行きました。
そのお話の内容というのが次の通りです。

昔、明詮という僧が真剣に仏道修行をやっていたが、三年たっても一向に魂の解決のメドがつかなかったので、「オレは駄目な人間なのかも知れない。無宿善力及ばずといわれる。今はこれまで」と、決心して善知識に永遠のおいとまを願って出た。
師僧は残念に思ったが、余りにも明詮の決意の程が堅いので慰留をあきらめ、それを許した。

しかしさすが永年苦楽を共に修行した師や法友と別れるのはつらかった。明詮は泣きながら寺を出た。
ところがその時、俄かに大雨が降って来たので、止むなく山門の下に腰を下し、雨の晴れるのを待っていた。その時、何気なく山門の屋

根から落ちる雨脚を見ていた明詮は、雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気がついた。

こんな堅い石に、どうして、こんな穴があいたのだろう。まぎれもない。それは雨滴の仕業ではないか。このやわらかい水滴が、この堅い石に穴をうがったのか。何という驚くべき事実であろう。
そうだ、自分は二年や三年の修行努力でへこたれて断念したが、この水にも恥ずべき横着者であった。仏法の重さを知らなかった。
後生の一大事を軽くみていたのだ。
たとえ、水のような力のない自分でも、根気よく求めてゆけば必ず魂の解決が出来るに違いない。
と奮然として、その場を立った明詮は、水から受けた大説法を師匠に話し、深く前非をわびて努力精進して、後に音羽の明詮といわれる大徳になったのである。

自分の心をみつめると、とても“強い”とはいえない。
いえ、とても弱いものです。
弱いから「どうせ駄目」と思うか、弱いから「人より頑張ろう」と思うか、ここが大きな分かれ道のような気がします。

こんな私だから、他人よりも多く時間をかけてやってみよう、こんな私だから、他人より繰り返しやっていこう、こう心がけていったら、きっと未来は開けるはず!

そんな風に、こころがちょっと明るくなった私でした。
今で親鸞会で聞いたお話や親鸞聖人の教えについてお話してきたのですが、この親鸞聖人の教えを後々まで伝えたのが蓮如上人であり、そして現在にいたっては親鸞会だということが、今までいろんなお話を親鸞会で聞く上ではっきりと分かりました。

6月 22

今回、親鸞会の館では親鸞聖人の降誕会(ごうたんえ)というものが勤められました。
これは親鸞聖人の生誕をお祝いして親鸞聖人の教えを聞かせていただく御縁のです。

その中で、聞いたお話は次のような内容です。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

昔、中国に、何時も樹上で、坐禅瞑想していた鳥巣という僧がおり、ある日、儒者で有名な白楽天がその樹下を通って一つ冷やかしてやろうと企て・・・
「坊さんよ、そんな高い木の上で、目をつむって坐っていては、危ないではないか」
鳥巣すかさず、
「そういう貴殿こそ、危ないぞ」 と切り返し
この坊主、相当偉いのかも知れぬ、と見てとった白楽天は、「私は名もなき白楽天という儒者だが、貴僧の名を承りたい」と尋ねると、
「私は鳥巣という名もなき坊主だ」
これが有名な鳥巣禅師と知った白楽天は、かねてから仏教に関心を持っていたので「いゝ処で貴僧に遇った。一体、仏教とは、どんなことを教えているのか、一言でおききしたい」と頭を下げた。

鳥巣は即座に、「もろもろの悪を為すことなかれ、謹んで善を修めよ、と教えるのが仏教である」と答え、白楽天はいささか呆れて「そんなこと位なら、三才の子供でも知っている」 と冷笑すると、鳥巣すかさず「三才の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行なうは難し」 と大喝している。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

言うは易し、行うは難しということですね。

「わかっちゃいるけど、やめられない」

身体に悪いと思いつつ、お菓子一つやめられない。
とても反省させられました。

まずは「出来てるつもり」から「出来てないことを反省する」ところにたって、努力していこうと誓うのでした☆

6月 8

先日の親鸞会館で親鸞聖人の講演会がありました。
今日は、そのお話の内容を書く前に親鸞会で発見したことを少しお話したいと思います。
親鸞会について話してきましたが、浄土真宗親鸞会では会長の高森顕徹先生が
親鸞聖人の教えを手垢をつけず、そのまま話をされています。
当然ですが、最初から今のように大きな会館だったわけではなく、誰も聞く人がないなか、辻説法から始まったそうです。

そんな親鸞会の簡単な経緯をお話したところで、今回親鸞会で聞くことができた内容をお話したいと思います。
その内容は、「人身受け難し」のお釈迦さまのお言葉についてでした。

その時、盲亀浮木の譬というたとえ話がなされました。

※わかりやすい動画がこちらにあります。
http://www.shinrankai.or.jp/s/movie/moukihuboku/index.htm

世に難しいことは多々あれども、盲亀浮木の譬のような「難」とはくらべるべくもなく、いかに人間に生まれることが有難いか改めて知らされました。

しかしただ確率が低くても、そこに「喜び」がなければ、意味がありません。
現実にはせっかく人間に生まれても、喜びの声は聞こえず、“科学、医学、政治、経済などの進歩”と“幸福”とは次元を異にしているかのようです。
皆、空と水しか見えない人生という海に溺れ、方向を見失っています。
哲学者ニーチェは「偉大とは方向を示すことだ」と言い、文学者カフカは「われわれが欲しいのは出口です」と叫び、泳ぎ方よりも、泳ぐ方向の重要性を訴えましたが、西洋答えを見出すことは出来ませんでした。
「進む方角が分かっただけで目的地についていないから意味がない」
などといっている人は、いまだ自分が水平線のど真ん中にいることすら理解できていないのだと思います。
そんな中、と進むべき方向を明らかに知らされた人は本当に幸福者だと感じました。

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