12月 2
親鸞会の勉強会で聞いた「白骨の章」について、感想を綴っています。
今回は「凡そはかなきものは、この世の始中終、幻のごとくなる一期なり」(幻のように過ぎ去る人間の一生ほど、はかないものはない)について。
この世の始中終とは、いわゆる幼年期、青壮年期、老年期のことで、女性の「始中終」を、室町時代の一休さんは、「世の中の 娘が嫁と花咲いて かかあとしぼんで 婆と散りゆく」と詠んだとか。さすが問題発言が許されるキャラを獲得した一休さんですが、男性も呼び名が変わるだけで同じコースをたどるのではないでしょうか。そして、その間は幻のごとく、あっという間に過ぎていく。確かにそのとおりかも。いや、まったくそのとおり。
親鸞会の勉強会の中では、こんな例えも聞きました。「時の経過する速さの感覚を例えると、10代は鈍行列車、20代は快速列車、30代は準急、40代は急行、50代は特急、60代は新幹線、その後はブレーキのきかなくなった弾丸列車のようなもの」と。
確かに、年をとると1年のたつスピードが速く感じるのは実感として分かります。そういえばこの間、東京オリンピックは7年後か・・・と思った記憶がありましたが、いつの間にか、あと4年になっていました。そうやって○年後はオリンピック、ワールドカップ、次は、と毎日毎年、楽しそうなイベントを追いかけているうちに人生の夕暮れを迎えるんだと思うと、そこはかとなく、いやーな感じですね。
もし、生きている間に果たすべき大事なことがあるとしたら、それを知って、それに向かって生きなきゃダメな(もったいない)気がします。・・・と、やたらまじめな発言をしてしまっているのだが、「白骨の章」には、それだけの(人生観を変える)力があるわけで。関心のある方は、親鸞会の勉強会にぜひ足を運んでみてください。
11月 11
前回から、親鸞会の勉強会で聞いた「白骨の章」について、感想を綴っています。
冒頭は、「それ、人間の浮生なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻のごとくなる一期なり」。
人間の相(すがた)は、浮生である。浮き草のように根っこがない。いつ、どんなことが起きて、今の幸せがひっくり返るか、分からない。本当にそうですよね。常に不安定な世界を私たちは生きていると思います。
最近なら博多駅前で突然、道路が陥没したり、トンネルの壁の崩落、祭りの爆発事故、車が突然突っ込んでくる事件も頻発しています。
不安定なのは人間関係も同じですよね。耳に入ってくる話といえば、仲のよかった2人の関係に、いつの間にか亀裂が入り、破局。そしてお互い傷つき苦しんでいる。なんで、どうしてそんなことになった?一体どこで間違えた?と思わずにいられないことが多いように思います。
そして、いちばん頼りにしているといっていいと思うのが健康ですが、その健康に突然、裏切られることもありますよね。ちょっと具合が悪いなと思って病院で検査したところがとんでもない病気だった。健康という幸せに裏切られた時のショックは、はかり知れません。
そんな、あてにならない人生を、つらつら、よくよく見てみると、「凡そはかなきものは、この世の始中終、幻のごとくなる一期なり」。幻のように過ぎる人の一生ほど、はかないものはない、と次に書かれています。この続きは次回にまた。
関心のある方は、親鸞会の勉強会にぜひ足を運んでみてください。
10月 29
親鸞会で聞いたお話をつづっていますが、今回は、勉強会で聞いたお話です。
浄土真宗に「白骨の章」という有名な文章があります。これは、親鸞聖人から200年後、室町時代に、浄土真宗を日本全国に広められた蓮如上人の「御文章(おふみ)」の一つ。名文としても名高く、読んでみると、本当に心にしみいる感じで、なんというか、こう、「正気に戻る感じ」です。じゃあ、それまでは狂っているのか、と言われそうですが、はい、たぶん「欲や怒り、ねたみそねみの煩悩」に狂っているのだと思います。百聞は一見にしかず、で、まずは全文をどうぞ。
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期(いちご)なり。
さればいまだ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装(とうりのよそおい)を失いぬるときは、六親・眷属(けんぞく)集まりて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ
どうでしょう?しんみり。。。きます。浄土真宗の葬儀では必ず読まれるようですが(僕もそんなに葬儀に参列した経験はありませんが)詳しく解説を聞いたのは、親鸞会の勉強会が初めてかもしれません。これは繰り返し聞かせてもらわなければ、と思いました。また親鸞会の勉強会に足を運んでみたいと思います。
9月 17
タイトル長くてすみません。少ーし前に親鸞会で聞いたお話です。
「なぜ人生は海に例えられるのですか?」。これは、ある日の座談会で出た質問。
このブログでも何度か取り上げたことがありますが、親鸞聖人は人生を海に例えて「難度海(なんどかい)」とか「生死の苦海(しょうじのくかい)」と言われているんですよね。それで「なんで山でも川でも砂漠でもなく、海なのか?」と。どこのどなたかわかりませんが、よき質問をしてくれました。山や川や砂漠ではマッチせず、海ならぴったりな人生の特徴とは何なのか。今日は単刀直入に結論にいきたいと思います。
それは「波が絶えないところ」だと教えてもらいました。「海に波が絶えないように、人生には苦しみの波が絶えない」。苦しみの絶えない人生を、荒波の絶えない海に例えて、「難度海」とか「生死の苦海」と親鸞聖人は教えられているわけですね。
これで一応、なぜ人生を海に例えられたのか、という問いの答えは分かりました。皆さんにも、あっさり分かってもらえたのではないかと思います。
ボクが取り上げたいのは、その次です。じゃあ、波とは何か?もちろん、仏教で「四苦八苦」と教えられる、いろいろな人生の苦しみであることには間違いない。それも詳しく聞かせてもらいました。が、この絶えない波の本質は一体何なのか?それについて、親鸞会のお話の中で、それは欲や怒り、ねたみそねみ、執着する心、ひと言でいうと「煩悩」であると聞かせてもらいました。ははー、難度海の波って、煩悩だったんですね。。。それは確かに、死ぬまで絶えないと言われて、はげしく納得です。なんかいろんな理解が脳内でつながりました!このお話の続きは、また次回に。
8月 10
親鸞会で聞いたお話の感想、まとめです。
「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝もわが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路の末・三塗の大河をばただ一人こそ行きなんずれ」
(いよいよ死ぬときには、それまで信じ、頼りにしてきた妻も子供も、お金や財産も何一つ持ってはいけない。すべてに見捨てられ、たった一人で次の世に旅出っていかなければならない)
そうなんだよなー。そうなんだけど…。わかっているんだけど…。妻子や財宝に代表される、相対的な幸福を、求めずにいられないのが人間ですよね?ということを、もやもやと考えていたら、先日、親鸞会のお話で、そのように執着する心も「煩悩」であり、煩悩具足の私たちは、妻子や財宝などの丸太や板切れにすがらずには生きられないものであることを教えてもらい、腑に落ちました。
そして、そんな煩悩具足で果てしなく苦しみ続けるしかない私たちを、変わらない本当の幸せ「絶対の幸福」にしてみせると約束されているのが、阿弥陀仏の本願といわれるもので。この阿弥陀仏の本願を聞いて、はじめてあらわれるのが「自力の信心」といわれる3つめの信心。そして阿弥陀仏の本願力によって「絶対の幸福」になったのが4つめの「他力の信心」と教えてもらいました。この説明は、僕にはまだ難しいので、これくらいにしておきたいと思いますが、引き続き、親鸞会のお話を聞いて勉強したいと思います。
7月 13

「信心」という言葉を聞いて、どんな印象を受けるか、というのは人それぞれだと思いますが、僕は正直、嫌な感じを受けます。それはたぶん、宗教=信心=盲信みたいなイメージがあるから。そんな僕にとって、「信心」といっても4通りあるという親鸞会のお話は、目からウロコが落ちるものでした。
4つのうちの1つ目は、神や仏を信じてご利益を願う信心。僕が嫌な感じを受ける信心はここに入りそうです。2つ目は、心で何かを信じる信心。例えば、金こそ幸せという金信心、健康こそ幸せと信じている健康信心、子供の存在が私の幸せという子供信心など、など。何を信じるかは人それぞれ違いますが、人は何かを信じ、支えにし、頼りにしなければ、生きてはいけないということは、間違いなさそうです。
ところが、ここで大きな問題が立ちはだかります。それは、これらの信心は、いずれも、今日あって明日なき無常のものを信じているために、常に壊れはしないかという不安がつきまとって離れない、という問題。この問題がやっかいなのは、この不安は、信じるものを変えようがなくならないし、深く信じれば何とかなる、という問題でもないところ。「構造的に解消不能」といえばいいか。何をどう信じても、どうあがいても逃れられない。詩的にいえば、人生って、こういうふうに呪われているんだ、みたいな。かりに何もかも無常と認めてしまえば、崩れても苦しまず、すましていられるのかもしれないけど、それで幸せと感じられるのだろうか。ただの不感症では。
「諸行無常」と説かれたお釈迦さまの、さとりの第一声が「人生は苦なり」だと聞いたことがあるけど、間違いなく「人生って苦しいこと多いよね」程度の単純な意味じゃないと思う。仏のさとりをひらかれて教えられたというからには。もしかしたら、この構造的に不安のまじった幸せ(信心)しかありえない僕たちの人生は、生まれてから死ぬまで不安に覆われていることを「人生は苦なり」と言い表されているんじゃないだろうか、なんてことを考えている今日このごろです。極めつけは、たとえしばらく幸せが続いても、死という総崩れの終末が迫っているという現実です。親鸞会のお話で、蓮如上人という方の言葉を習いました。
「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝もわが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路の末・三塗の大河をばただ一人こそ行きなんずれ」
いよいよ死ぬときには、それまで信じ、頼りにしてきた妻も子供も、お金や財産も何一つ持ってはいけない。すべてに見捨てられ、たった一人で次の世に旅出っていかなければならない、と。
この構造的に解消不能な幸せ問題に対して、仏教にはどんな解答があるのか、というのが次の問題です。
引き続き、親鸞会のお話を聞いて勉強したいと思います。

6月 17

「信心」という言葉を切り口に、ボクの頭を整理しています。ひとくちに「信心」といっても4通りあると親鸞会のお話で教えてもらいました。
1つ目は、神や仏を信じてご利益を願う信心。2つ目は、心で何かを信じる信心。例えば、金さえあれば幸せと信じている「金信心」、健康こそ幸せと信じている「健康信心」、子供が宝と信じている「子供信心」など。
2つの信心に共通するのは、そこで求めている、得られる幸せは「相対的な幸福」であることだと思います。
2つが違う点は、1つ目の信心は持たない人もあるけれど、2つ目の信心を持たない人は一人もないというところ。なぜなら、何かを信じなければ、人は生きていけないから。
ところが残念なことに、これらの信心は、いずれも、今日あって明日なき無常のものを信じているために、常に壊れはしないかという不安がつきまとって離れないという特徴があります。そのことを、お釈迦さまは「諸行無常」と説かれ、親鸞聖人は「火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごと、たわごと、まことあることなし」と「歎異抄」に断言されています。
ボクは親鸞会でお話を聞いてはじめて、この「歎異抄」の言葉を知りましたが、この言葉が人生観に与えた衝撃度ははかりしれません。しかも、これをくつがえして、そんなことない、こんな幸せだってあるだろ、と説得してくれる別の解答にいまだ遭遇せず。これが「本当のこと」だということは、内心みんな分かっているんじゃないかな。この「本当のこと」を、蓮如上人もズバリ説かれているんだけど、それは次回に書きたいと思う。続けてもっと親鸞会で学んでいきませう。

5月 30
親鸞会で聞いたお話の感想、前回から「信心」という言葉を切り口に僕の理解を整理しようと試みています。
90年の生涯、「信心一つで救われる」と教えられた方が親鸞聖人、と言われるほど、重要なキーワードがこの「信心」ですが、ひとくちに「信心」といっても4通りあると親鸞会のお話で教えてもらいました。
まずはじめに、世間一般に思い浮かべる、神や仏を信じてご利益を願う信心。ふつう信心といったらこれでしょう。「もっと信心しなさい」とか「信心が足らない」という、あれですね。
でも、信心とは、文字通り、心で何かを信じることですから、じつは神や仏を信じるだけが信心ではなく、心で何かを信じていれば、それはその人の信心。例えば、金さえあれば幸せになれると信じている人は「金信心」であり、健康こそ幸せのすべてと信じている人は「健康信心」、結婚さえすれば人生バラ色と信じているのは「結婚信心」。子供が命と信じているのは「子供信心」といった感じで、「これがあれば幸せ」と信じ支えにしているのは、みんな「信心」であって、これが2つ目の信心です。
1つ目の信心(神や仏にご利益を願う信心)は、持たない人もあるでしょうが、2つ目の信心は、持たない人は誰もいないでしょう。何らかの希望や明かりがなければ人は生きていけないからです。何の信心も持たない人があるとしたら、それは死が光明となった人、すなわち自殺していく人ということになりそうです。というわけで、すべての人は、この2つ目の信心をもっているわけですが、この信心には宿命的な弱点が。。。
さらに続けて親鸞会で、仏教の奥深いところを学んでいきたいと思います。
4月 28
親鸞会で聞いたお話の感想などを綴っています。
今回から「信心」というキーワードをもとに、僕の理解をまとめてみたいと思います。
詳しい人によると、親鸞聖人の教えを学ぶときに「信心」は、キーワード中のキーワードらしいです。しかも世間一般の単純な意味とは全く違うので、うかつには触れられないような気配も感じます。そもそも「親鸞聖人といえば念仏でないの?」と、ふつうみんな思うと思うのですが、どうも違うようなのです。
どうしてそれが分かるかというと、浄土真宗で超有名な「聖人一流の章」というものがあって、これは親鸞聖人から数えて8代目の蓮如上人という方が書かれたものですが、浄土真宗では中興上人といわれる有名なお方です。その蓮如上人の書かれた手紙を「御文章」とか「おふみ」と言われるんですが、その中で最も有名な一つが「聖人一流の章」です。前置きが長くなりましたが、その「聖人一流の章」の冒頭に、このように記されています。
「聖人一流のご勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」
(親鸞聖人が生涯教えられたのは、信心一つで救われるということである)
親鸞聖人の教えは「信心をもって本とする」と断定されているんですね。そこで、親鸞聖人の教えられた「信心」とはどんなことか、ということが壮大なテーマになるんですが、親鸞会のお話の中で、信心といっても4通りあることを教えてもらいました。
まず世間一般に思い浮かべる、神や仏を信じてご利益を願う信心。ふつう、信心といったらこれですよね。「もっと信心しなさい」とか「信心が足らない」というのは、神や仏に対する信心のこととして使っています。ところが、神や仏を信じるだけが信心ではないと聞かせてもらいました。その話は次回に。
続けて親鸞会で仏教の奥深いところを学んでいきたいと思います。
3月 11
運命の仕組み「因果の道理」について、親鸞会で聞いたお話を思い出しながら、頭の整理をしています。今回のテーマは、因果の道理を知ると、よい結果が自分に現れたとき、どんな生き方になるのか。
因果の道理は、
善因善果
悪因悪果
自因自果
まかぬ種は生えぬが、まいた種は必ず生える。
よいのも悪いのも、自分に現れる運命のすべては、自分のまいた種ばかり。
ならば、善い結果に恵まれた時は、どうか。単純に考えれば、それは自分がよい種をまいたから自分によい結果が現れた(善因善果、自因自果)んでしょ?だから「これは自分がよい種まいたからだ」と思って、もっとよい種をまこうと努力するんじゃないの?と誰でも思いますよね。でも、親鸞会のお話の中で、善い結果が現れた時は「感謝となり、努力となる」と教えてもらいました。
因果の道理が深く知らされたら、善果が現れたとき「感謝」となるんですね。「感謝」があるから「努力」となる。「感謝」なくして「努力」なし。なぜ「感謝」となるのか?ぜひ皆さま、考えてみてください。深い・・・深いです、因果の道理。
僕も続けて親鸞会で仏教の奥深いところを学んでいきたいと思います。

運命の仕組み「因果の道理」について、親鸞会で聞いたお話を思い出しながら、頭の整理をしています。今回のテーマは、因果の道理を知ると、よい結果が自分に現れたとき、どんな生き方になるのか。

因果の道理は、

善因善果

悪因悪果

自因自果

まかぬ種は生えぬが、まいた種は必ず生える。

よいのも悪いのも、自分に現れる運命のすべては、自分のまいた種ばかり。

ならば、善い結果に恵まれた時は、どうか。単純に考えれば、それは自分がよい種をまいたから自分によい結果が現れた(善因善果、自因自果)んでしょ?だから「これは自分がよい種まいたからだ」と思って、もっとよい種をまこうと努力するんじゃないの?と誰でも思いますよね。でも、親鸞会のお話の中で、善い結果が現れた時は「感謝となり、努力となる」と教えてもらいました。

因果の道理が深く知らされたら、善果が現れたとき「感謝」となるんですね。「感謝」があるから「努力」となる。「感謝」なくして「努力」なし。なぜ「感謝」となるのか?ぜひ皆さま、考えてみてください。深い・・・深いです、因果の道理。

僕も続けて親鸞会で仏教の奥深いところを学んでいきたいと思います。

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