4月 30
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
私たちが最も知りたいけど正体不明の「運命」というものは、じつは神が決めたのでもなければ、先祖のたたりでもない。偶然決まるのでもなければ、キツネやタヌキの霊のせいでもない。自分の身に起きる一切の結果は、善いのも悪いのも、自分の行為(種まき)が生み出したものであり、それもこれも、すべて「自業自得」(自分の行為=自業が自分の運命をつくる=自得)と教えられるのが仏教の「因果の道理」なんだと、これまで親鸞会のお話で聞いて分かりました。
そして次のステップへ。運命(結果)は神や先祖などの他者から与えられるものではなく、自分の善悪の行為が業力となって、善悪の結果を生み出すことはよく分かりましたが、さて、どんな仕組みで、因から果が生じるのでしょう。
ここで「縁」というものが登場します。縁とは、端的にいえば、因が結果を生み出すのを助けるもの。すべての結果は因と縁が結びついて生じると教えられるのが仏教の「因果の道理」だったのです。だから本当は「因縁果の道理」というのが正確だそう。「因果の道理」という言い方は、縁を因に含めた言い方だと親鸞会のお話で習いました。
因と縁の関係は、結果を生み出す直接的な原因が「因」で、その発芽を助けるのが「縁」ということでしょうか。とにかく、因だけあっても縁がなければ結果は生じないし、もちろん縁があっても因がなければ結果は生じない。因と縁がそろって、はじめて結果が生み出されるということがキモで。このお話はまだまだ続く。

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。

私たちが最も知りたいけど正体不明の「運命」というものは、じつは神が決めたのでもなければ、先祖のたたりでもない。偶然決まるのでもなければ、キツネやタヌキの霊のせいでもない。自分の身に起きる一切の結果は、善いのも悪いのも、自分の行為(種まき)が生み出したものであり、それもこれも、すべて「自業自得」(自分の行為=自業が自分の運命をつくる=自得)と教えられるのが仏教の「因果の道理」なんだと、これまで親鸞会のお話で聞いて分かりました。

そして次のステップへ。運命(結果)は神や先祖などの他者から与えられるものではなく、自分の善悪の行為が業力となって、善悪の結果を生み出すことはよく分かりましたが、さて、どんな仕組みで、因から果が生じるのでしょう。

ここで「縁」というものが登場します。縁とは、端的にいえば、因が結果を生み出すのを助けるもの。すべての結果は因と縁が結びついて生じると教えられるのが仏教の「因果の道理」だったのです。だから本当は「因縁果の道理」というのが正確だそう。「因果の道理」という言い方は、縁を因に含めた言い方だと親鸞会のお話で習いました。

因と縁の関係は、結果を生み出す直接的な原因が「因」で、その発芽を助けるのが「縁」ということでしょうか。とにかく、因だけあっても縁がなければ結果は生じないし、もちろん縁があっても因がなければ結果は生じない。因と縁がそろって、はじめて結果が生み出されるということがキモで。このお話はまだまだ続く。

3月 31
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
自業自得といえば、日本人なら誰でも知っている四字熟語といっても
いいくらいでしょう。
世間一般には、この自業自得という言葉はどんなときに使われるか、
考えてみますと、例えば、
飲酒運転をして事故を起こしたとか、
夜更かしして、カップラーメンやファストフードばかり食べて
ついに病気になったとか、
試験前なのに遊んでばかりで全く勉強せず、単位を落したとか、
そんなことを見たり聞いたりしたとき「それはおまえ自業自得だよ」
などと使われます。
つまり、誰がみても明らかにその人のたねまきによって悪い結果を
受けたときに限定して使う言葉となっています。
では、自業自得の本来の意味はどうか。
自業の自は自分(私)のこと。自業の業は仏教で「行い」のことです。
自業とは、自分の行為ということになります。
自得とは、自分が運命を得る、ということですから、自業自得とは、
自分の行為によって自分の運命を得る。すなわち、
自分の運命を生み出したのは自分の行為である、ということになります。
自業は、悪い行為に限定されていませんから、善い結果があらわれたときも、
自業自得です。例えば、
世界一の練習をして、オリンピックで世界一の金メダルを獲得したとか、
何千回の失敗にも実験をあきらめず、大発見してノーベル賞をとったとか、
他人が遊んでいるときも勉強して、志望の大学に合格できたとか、
そんな善い結果があらわれたのも、自業自得ということになります。
「それは自業自得だよ」ではなく「それもこれも、すべて自業自得である」
と教えるのが、仏教の「自業自得」であり、「因果の道理」であることを、
親鸞会のお話で聞かせてもらいました。
目からウロコですね。
親鸞会で、仏法の本から末まで、続けて聞いていきたいと思います。

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。

自業自得といえば、日本人なら誰でも知っている四字熟語といっても

いいくらいでしょう。

世間一般には、この自業自得という言葉はどんなときに使われるか、

考えてみますと、例えば、

飲酒運転をして事故を起こしたとか、

夜更かしして、カップラーメンやファストフードばかり食べて

ついに病気になったとか、

試験前なのに遊んでばかりで全く勉強せず、単位を落したとか、

そんなことを見たり聞いたりしたとき「それはおまえ自業自得だよ」

などと使われます。

つまり、誰がみても明らかにその人のたねまきによって悪い結果を

受けたときに限定して使う言葉となっています。

では、自業自得の本来の意味はどうか。

自業の自は自分(私)のこと。自業の業は仏教で「行い」のことです。

自業とは、自分の行為ということになります。

自得とは、自分が運命を得る、ということですから、自業自得とは、

自分の行為によって自分の運命を得る。すなわち、

自分の運命を生み出したのは自分の行為である、ということになります。

自業は、悪い行為に限定されていませんから、善い結果があらわれたときも、

自業自得です。例えば、

世界一の練習をして、オリンピックで世界一の金メダルを獲得したとか、

何千回の失敗にも実験をあきらめず、大発見してノーベル賞をとったとか、

他人が遊んでいるときも勉強して、志望の大学に合格できたとか、

そんな善い結果があらわれたのも、自業自得ということになります。

「それは自業自得だよ」ではなく「それもこれも、すべて自業自得である」

と教えるのが、仏教の「自業自得」であり、「因果の道理」であることを、

親鸞会のお話で聞かせてもらいました。

目からウロコですね。

親鸞会で、仏法の本から末まで、続けて聞いていきたいと思います。

2月 9
自分自身のアウトプットとして、
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
昨日より今日、今日より明日と、人はみな、
幸せを求めて生きているはず。
どうすれば幸福という運命が得られるのか。
これ一つ知りたいといってもいいぐらい。
でも運命ほど不可解なものはないのも事実。
そこでみんないろいろに迷う。
神が運命を決めたのか。
先祖が運命を決めたのか。
それとも、キツネやタヌキの霊のしわざなのか。
仏教では「自業自得」と教えられる。
自業自得といえば誰でも知っている四字熟語だけど、
もともと仏教の言葉だったんですね。
親鸞会のお話で、どんな難しい定理が飛び出してくるかと
思いきや、ほっとしました。
しかし、世間一般に使われる意味と本当の「自業自得」は
かなり違うことがこのあと明らかに。
親鸞会のお話は分かりやすくていいね。

自分自身のアウトプットとして、

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。

昨日より今日、今日より明日と、人はみな、

幸せを求めて生きているはず。

どうすれば幸福という運命が得られるのか。

これ一つ知りたいといってもいいぐらい。

でも運命ほど不可解なものはないのも事実。

そこでみんないろいろに迷う。

神が運命を決めたのか。

先祖が運命を決めたのか。

それとも、キツネやタヌキの霊のしわざなのか。

仏教では「自業自得」と教えられる。

自業自得といえば誰でも知っている四字熟語だけど、

もともと仏教の言葉だったんですね。

親鸞会のお話で、どんな難しい定理が飛び出してくるかと

思いきや、ほっとしました。

しかし、世間一般に使われる意味と本当の「自業自得」は

かなり違うことがこのあと明らかに。

親鸞会のお話は分かりやすくていいね。

1月 27
親鸞会で聞いたお話の感想です。
仏法の本(根幹)といわれる「因果の道理」について学びました。
どんな結果にも、必ず原因がある。
原因なしに起きる結果は絶対にない。
これが、古今東西かわらない道理なんですね。
「まいたタネは必ず生える」
「まかぬタネは絶対生えぬ」
シンプルだけど、強固な法則ですよね。
驚くのは、この法則が人間の運命についても成り立つと教えられること。
僕たちが、いちばん知りたいと思っていることは、つきつめれば、
どうすれば幸せ(という運命)が得られるか、ということだと思います。
その運命の仕組みが分からないために、神や先祖のたたり、あるいは、
キツネやタヌキがついていると言われると、そうかなと信じてしまう。
親鸞会のお話を聞きながら、ふと思ったけど、
不可解な運命は妖怪のしわざかもしれない、というコンセプトで人気の
「妖怪ウォッチ」も子供だましと笑っていられない。
というか意外と子供も冷静で、「これは妖怪のせいかもしれないよ~」
なんて言っても、「おっちゃんがやったんでしょ!」みたいな感じで、
あっさり切り返された。
そうかと思うと、テレビで大の大人が神妙にパンパンと手をたたいて、
何かの神サマに祈ったり供養している姿をよく見る。ほんと不可解だ。
因果の道理を親鸞会で学べるのはありがたいと思う今日このごろ。

親鸞会で聞いたお話の感想です。

仏法の本(根幹)といわれる「因果の道理」について学びました。

どんな結果にも、必ず原因がある。

原因なしに起きる結果は絶対にない。

これが、古今東西かわらない道理なんですね。

「まいたタネは必ず生える」

「まかぬタネは絶対生えぬ」

シンプルだけど、強固な法則ですよね。

驚くのは、この法則が人間の運命についても成り立つと教えられること。

僕たちが、いちばん知りたいと思っていることは、つきつめれば、

どうすれば幸せ(という運命)が得られるか、ということだと思います。

その運命の仕組みが分からないために、神や先祖のたたり、あるいは、

キツネやタヌキがついていると言われると、そうかなと信じてしまう。

親鸞会のお話を聞きながら、ふと思ったけど、

不可解な運命は妖怪のしわざかもしれない、というコンセプトで人気の

「妖怪ウォッチ」も子供だましと笑っていられない。

というか意外と子供も冷静で、「これは妖怪のせいかもしれないよ~」

なんて言っても、「おっちゃんがやったんでしょ!」みたいな感じで、

あっさり切り返された。

そうかと思うと、テレビで大の大人が神妙にパンパンと手をたたいて、

何かの神サマに祈ったり供養している姿をよく見る。ほんと不可解だ。

因果の道理を親鸞会で学べるのはありがたいと思う今日このごろ。

12月 24

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。仏法の本(根幹)といわれる「因果の道理」のつづきです。

因果とは原因と結果。どんな結果にも必ず原因がある。原因なしに起きる結果は絶対にない。わかりやすく言えば「まいたタネは必ず生える。まかぬタネは絶対生えぬ」ということですね。中でも私たちの最大関心事は自分の運命といえそうです。どうしたら幸せという結果(よい運命)が手に入るのか。不幸や災難(悪い運命)から逃れられるのか。考えてみれば、みんな幸せになりたくて生きているし、勉強したり、働いているのも、そのためですね。

ボクの話ですが。広告なんかでマンガ「7つの習慣」の宣伝を見ると、買って読もうかどうか迷う。それが自分の幸せにつながると思えば買うし、それほど変わらないだろうと思えばお金を払ってまで読もうとは思わない。ただ、幸せの法則みたいなものを知りたいという思いは、多くの人が抱くのでは、と思います。

実際のところ、世の中では運命はどのようにして決まると考えている人が多いのでしょう。親鸞会のお話では、世界では神が運命を決めると信じて人が非常に多いというお話がありました。たしかにキリスト教やイスラム教などを信じている人は多そうです。日本では、そういう神を信じている人は少ないかもしれませんが、先祖の霊を神として、いわゆる先祖のたたりとか、霊が、私たちの運命に影響力をもっているという信仰が、ほとんど無意識に根を張っているようです。そうでなければ、わざわざ元旦に初詣でにいって、賽銭を投げ「今年一年、幸せになれますように」とか「よい縁(結婚)に恵まれますように」とか「○○大学に合格できますように」と神社の神サマに祈るという行為をするはずがありません。(不可解なのは、成功は祈願するものの、それが成就しなくても、恨みをぶつけないところですが)

でも、そのような神の存在を認めないのが、仏教の因果の道理なんですね。
まだまだ親鸞会で聞いたお話は、つづく。

12月 3

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。今回も、仏法の本といわれる「因果の道理」の、つづきです。

因果とは原因と結果。どんな小さな結果にも必ず原因がある。原因なしに起きる結果は絶対にない。飛行機が墜落したり、列車が脱線するなどの事故が起きると、事故調査委員会が徹底的に原因を調べます。原因をつきとめ、取り除いて、二度と同じことが起きないようにするためですが、それもこれも結果には必ず原因があるという大前提あればこそですよね。あれは偶然起きたこと、たまたま運が悪かったで済ませたら、科学の進歩はありえません。そりゃそうだと思いますが、自分に何かトラブルが起きたとき、どれだけ原因を突き詰めて取り除く努力をしているか考えてみると、うーん、脱線した新幹線を地中に埋めるのと似たようなことをしているかもしれない、と少し反省しました。

もちろん、原因が分からないということはあって、そういえば消息を絶ったマレーシア航空機は一体、どうなってしまったのでしょう。もはや永久に原因不明かもしれませんが、しかし何の原因もなしにあのような結果が起きたはずはありません。原因はあったけれど、分からない、ということですよね。

 ちなみに、これは親鸞会の話とは関係ありませんが、今日「はやぶさ2」が打ち上げに成功しました。もし失敗していたら「事故の原因を詳しく調査中です」と報道されたでしょう。結果には必ず原因があると、みな認めているからです。

 しかし、NHKの「クローズアップ現代」では、プロジェクトにかかわる人たちが、神社に打ち上げ成功を祈願している様子も紹介されていました。このあたりが次に問題になるところで・・・次回につづく。

10月 30

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
回線事情があって、3カ月ぶりにようやく復帰できました。

でも親鸞会のお話は毎月、聞いていましたよ。
だから聞いたお話はたくさんあるんですが、のりかかった船で、「仏法の本とは何か」というテーマにしぼって、しばらくは書いていこうかなーと思います。

仏法の本とは、仏法の根幹ということで、根幹とは根であり幹であるということ。仏教を一本の木とすると、その根や幹にあたる教えが、「根幹」であり「本」ということですね。
では、それは何かというと、「因果の道理」。・・・「因果の道理」とは何か。

ここからは親鸞会のお話で聞いたことじゃなくて、僕の妄想世界の話です。因果の道理って、耳で聞くと「インガノドウリ」だけど、予備知識ゼロでこれを聞くと、「印画喉瓜」と変換できないこともないし、「陰がノド売り」とも聞えるし、「いんがの通り」という道の名前かとも思うし、そもそも日本語なのか、和製英語なのか、あるいはドイツ語か、ポルトガル語かもしれない、何だろう、と不安になりますね。え、ならない?

では、親鸞会で聞いたお話に戻りまして、「因果の道理」の「因果」とは「原因と結果」のことです。因という字は原因ということ。果という字は結果ということであり、
原因なくして起きる結果は絶対にない。結果があれば必ず原因がある、ということです。俗に「まかぬタネは絶対生えぬ。まいたタネは必ず生える」といわれます。(つづく)

7月 10

親鸞会で聞いたお話の感想をつづっています。

最近「仏法の本から末まで」をテーマに、聞かせてもらっています。ボクにとっては願ったりかなったりの内容です。まず仏法の本(もと)とは何か、というところからなんだけど、その前に!仏法とは何か、というお話から聞かせてもらいました。

仏法とは仏教のことですが、この仏とは約2600年前、インドで活躍されたお釈迦さまのことで、釈迦一代の教えが仏教です。では、それを仏法ともいわれるのはなぜか。それを理解するには法とは何かを知る必要がありますよね。

仏教で法とは三世十方を貫くことをいう、そうです。三世とは過去現在未来、いつでもということ。何千年前も今も何千年後も、いつでも変わらないことだけを法といわれるのですね。昔は正しかったけど今は間違いとされることや、今は正しいけど何千年後にはどうなるか分からないというようなものは法とはいえません。十方とは東西南北上下とその間の四方で、どこでもということ。日本でもアメリカでも中国でもインドでもブラジルでもヨーロッパでも。どこでも成り立つこと、変わらないことだけを法といわれます。日本では正しいとされるが、アメリカにいったら間違いになるとか、地球以外では成り立たないというようなことは法とはいえません。いつでもどこでも変わらない、絶対に間違いないことだけを法といわれ、そんな法を説かれたのがお釈迦さまだから、仏教のことを仏法ともいわれるのだと聞かせてもらいました。合点。

また、親鸞会のお話ではこんなことも教えてもらいました。世間でも「憲法」とか「法律」「交通法規」など、あまりころころかわらないものを法といわれますが、そこで使われる「法」と、仏法の「法」はまったく違うということです。最大の違い目は、世間の憲法や法律は人間がつくったもの。だから、時代や国が変わればいくらでも変わるものです。でも仏法の「法」は、そんな人間がつくった法ではなく、三世十方を貫くものだから、どれだけ時代や国が変わっても変わらないし、変えてはならないものだと教えてもらいました。「これだけ世の中が変わったのだから仏教も変えなければ時代遅れになるのでは」という発想は、三世十方を貫く法を教えられているのが仏教ということを知らないところからでてくる発言で、そういうものが仏教ではないということなんですね。合点。合点。

ボクの中で、仏法が再定義されました。では、その三世十方を貫くこととは何か。仏法の本とは何でしょうか、ということになるのですが、しばらくこのテーマにそって親鸞会で聞いたお話の感想を綴っていこうと思います。

6月 26

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。

今回のテーマは「真実の自己」。真実の自己とは「ほんとうの私」。「ほんとうの」という意味は、三世十方(古今東西)変わらない人間の姿。

「自分のことは自分がいちばんよく分かっている、何を今更、聞かなければならないの?」と思ってしまいがちですが、じつは、分かっていると思い込んでいるだけで、「汝自身を知れ」の言葉どおり、古代から今日までずっと分からず、私たちが知りたくて求めてきたことが「人間とは何ぞや」という問いなのかもしれません。これは親鸞会のお話の中で聞いたのではありませんが、そういえば「人間」が知りたくて医学の道を志したという人を知っています。また、「人間」が知りたくて物理学を志したという有名な物理学者の自伝も読んだことがあります。「人間」をどうとらえるかでロボット研究の方向性が変わったというアンドロイド研究者の話も聞きますし、「人間」を知らないと、行政政策も決められないといった官僚も知っています。「人間」の心理と行動を離れては経済学も成り立たず、哲学や心理学は言うに及ばず、文学もしかりですよね。

やっぱり、「人間」とは何か、「私」とは何かって、みんなの最大関心事なのかもしれません。いや、きっとそう。

それで話を親鸞会のお話に戻すと、自分というものは、自分に近すぎて分からない。そこで、ほんとうの私を映す鏡が仏教だと聞かせてもらいました。だから仏教を聞くということは、三世十方(古今東西)変わらない、ほんとうの私とはいかなるものかを聞く、ということになりますね。壮大でもあり、最も身近なものなんですね。なんだか仏教のイメージが変わります。

5月 27

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。

ズバリ今回は「なぜ生きる 親鸞聖人のお答え」について聞かせていただきました。

すべての人は、生まれた時に、空と水しか見えない海に放り出されたようなもの。
どうするか。泳がなければ溺れ死ぬだけだから、泳がなければなりません。
その時に大事になるのは、どう泳ぐかの泳ぎ方と、どこへ向かって泳ぐかという方角ですね。たしかに泳ぎ方が分からなければ、たちまち沈んでしまいますから、泳ぎ方は大事です。しかし、どんな泳ぎ方をして、どれだけ泳ごうとも、島も陸地もなければ、いずれは溺れ死ぬ悲劇は免れません。その意味で、どう泳ぐかも大事ですが、より重要なのは、どこへ向かって泳ぐかという方角になります。すなわち、どう生きるも大事だが、もっとも大事なことは「なぜ生きる」ということですね。

ところが見渡す限り空と水しか見えない古今東西の人間は、その答えが見いだせず、問い続けて死んでいる。それが「なぜ生きる」という深遠な問い。夏目漱石は、「人間は生きて苦しむ為めの動物かもしれない」と妻への手紙に記し、芥川龍之介は、「人生は地獄よりも地獄的である」といって自殺を選択した問い。

この問いに答えるのは大変なことですが、親鸞聖人は、主著である『教行信証』の冒頭も冒頭、いちばんはじめに、この問いの答えを明示されているというのですから、驚くべきことではないでしょうか。

そのお言葉が
「難思の弘誓は難度の海を度する大船、
 無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」
です。

親鸞会のお話では、この意味について詳しく聞かせていただいたのですが、ボクの器量では、これ以上はあえなくダウンというわけで・・・。続けて親鸞会のお話を聞いていきます。

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