3月 11
運命の仕組み「因果の道理」について、親鸞会で聞いたお話を思い出しながら、頭の整理をしています。今回のテーマは、因果の道理を知ると、よい結果が自分に現れたとき、どんな生き方になるのか。
因果の道理は、
善因善果
悪因悪果
自因自果
まかぬ種は生えぬが、まいた種は必ず生える。
よいのも悪いのも、自分に現れる運命のすべては、自分のまいた種ばかり。
ならば、善い結果に恵まれた時は、どうか。単純に考えれば、それは自分がよい種をまいたから自分によい結果が現れた(善因善果、自因自果)んでしょ?だから「これは自分がよい種まいたからだ」と思って、もっとよい種をまこうと努力するんじゃないの?と誰でも思いますよね。でも、親鸞会のお話の中で、善い結果が現れた時は「感謝となり、努力となる」と教えてもらいました。
因果の道理が深く知らされたら、善果が現れたとき「感謝」となるんですね。「感謝」があるから「努力」となる。「感謝」なくして「努力」なし。なぜ「感謝」となるのか?ぜひ皆さま、考えてみてください。深い・・・深いです、因果の道理。
僕も続けて親鸞会で仏教の奥深いところを学んでいきたいと思います。

運命の仕組み「因果の道理」について、親鸞会で聞いたお話を思い出しながら、頭の整理をしています。今回のテーマは、因果の道理を知ると、よい結果が自分に現れたとき、どんな生き方になるのか。

因果の道理は、

善因善果

悪因悪果

自因自果

まかぬ種は生えぬが、まいた種は必ず生える。

よいのも悪いのも、自分に現れる運命のすべては、自分のまいた種ばかり。

ならば、善い結果に恵まれた時は、どうか。単純に考えれば、それは自分がよい種をまいたから自分によい結果が現れた(善因善果、自因自果)んでしょ?だから「これは自分がよい種まいたからだ」と思って、もっとよい種をまこうと努力するんじゃないの?と誰でも思いますよね。でも、親鸞会のお話の中で、善い結果が現れた時は「感謝となり、努力となる」と教えてもらいました。

因果の道理が深く知らされたら、善果が現れたとき「感謝」となるんですね。「感謝」があるから「努力」となる。「感謝」なくして「努力」なし。なぜ「感謝」となるのか?ぜひ皆さま、考えてみてください。深い・・・深いです、因果の道理。

僕も続けて親鸞会で仏教の奥深いところを学んでいきたいと思います。

2月 15
前回は、運命の仕組み「因果の道理」について、これまで親鸞会の座談会などで聞いてきたことを、断片的にまとめてみた。ここからは、ボクの頭の整理です。テーマは、因果の道理を知ると、どんな生き方に変わるのか、ということについて。
まず、運命を生み出すのは私の行為であり、得体のしれない神や先祖の霊のしわざではないと知れば、ほっとするし、運命について重苦しい不安感は、なくなると思う。
そして善いのも悪いのも、自分に現れる運命のすべては自分の行為が生み出すとなれば、誰でもやっぱり善い運命がほしいから、善いことをしようという気持ちになるし、悪い運命はいやだから、悪いことはしないようにしようという気持ちになる。これを「廃悪修善」って、たしか親鸞会のお話の中で聞いたように思う。
また、あらゆる結果は因と縁が結びついて現れ、因と縁は同等に重要だから、悪い縁を避け、善い縁に近づく生き方になると思う。縁を選んでいくことも、すごく大事だよね。
そして、悪い結果が現れた時。普通なら、他人を恨みのろい、その心でまた苦しむところだけれども、因果の道理を見つめたら、自分のまいた種と反省する気持ちになり、心が落ち着くように思う。ゆるしとか、受容というのだろうか。一見するとアキラメ主義のように思えるが、アキラメ主義と違うのは、起きてしまった結果は自分の過去にまいた種と受け止め、未来の運命は、これからの種まきで変えていこうという意志があるところではないだろうか。そういう意味ではアキラメていないわけで。あきらかにみて、あきらめていない。行動の原動力が恨みや復讐とは違う、ポジティブな生き方になるのではないだろうか。
じゃあ、善い結果に恵まれた時はどうなるのか?これが一筋縄ではいかなくて、以前に親鸞会で聞いたお話をもとに次回、整理してみたいと思う。
前回は、運命の仕組み「因果の道理」について、これまで親鸞会の座談会などで聞いてきたことを、断片的にまとめてみた。ここからは、ボクの頭の整理です。テーマは、因果の道理を知ると、どんな生き方に変わるのか、ということについて。
まず、運命を生み出すのは私の行為であり、得体のしれない神や先祖の霊のしわざではないと知れば、ほっとするし、運命について重苦しい不安感は、なくなると思う。
そして善いのも悪いのも、自分に現れる運命のすべては自分の行為が生み出すとなれば、誰でもやっぱり善い運命がほしいから、善いことをしようという気持ちになるし、悪い運命はいやだから、悪いことはしないようにしようという気持ちになる。これを「廃悪修善」って、たしか親鸞会のお話の中で聞いたように思う。
また、あらゆる結果は因と縁が結びついて現れ、因と縁は同等に重要だから、悪い縁を避け、善い縁に近づく生き方になると思う。縁を選んでいくことも、すごく大事だよね。
そして、悪い結果が現れた時。普通なら、他人を恨みのろい、その心でまた苦しむところだけれども、因果の道理を見つめたら、自分のまいた種と反省する気持ちになり、心が落ち着くように思う。ゆるしとか、受容というのだろうか。一見するとアキラメ主義のように思えるが、アキラメ主義と違うのは、起きてしまった結果は自分の過去にまいた種と受け止め、未来の運命は、これからの種まきで変えていこうという意志があるところではないだろうか。そういう意味ではアキラメていないわけで。あきらかにみて、あきらめていない。行動の原動力が恨みや復讐とは違う、ポジティブな生き方になるのではないだろうか。
じゃあ、善い結果に恵まれた時はどうなるのか?これが一筋縄ではいかなくて、以前に親鸞会で聞いたお話をもとに次回、整理してみたいと思う。
1月 21
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
中断していましたが、運命の仕組み「因果の道理」について、これまでの僕の理解をまとめる続きです。
・結果には必ず原因がある。「まいたタネは必ず生える。まかぬタネは絶対生えぬ」
・あらゆる結果は、「因」と「縁」が和合して現れる。
因と縁、どちらか一方が欠けても結果は生じない。その意味で因と縁は同等。
・因とは自分の行為(業)であり、自分の行いが自分の運命を生み出す(自業自得)。
・行為には、身口意の三業がある。
・私の善悪の行為は、目に見えない不滅の力(業力)となって永遠の生命に蓄えられる。これを業因とも業種子ともいわれる。
・業因に縁が結びついて、善悪の結果(運命)を生み出す。
・縁には、選べる縁と選べない縁がある。
・自分に現れた運命を見れば、記憶の有無に関わらず、そのような運命を生み出す業因を自分が過去につくったことが分かる。
・他因自果(他人の行為が因となり、自分の運命を生み出す)は絶対になく、他因自果のように思える他因は、縁である。
・縁を因と混同して、他を恨み呪っている愚かさを「縄をうらむ泥棒」といわれる。
・とはいえ縁は、結果を生み出す重要な働きをするから、悪い縁は排除しなければならない。
これまで親鸞会の座談会などで聞いてきた断片を、整理してみました。もっといろいろあるかもしれないけど、おさらいはこれくらいにして、この運命の仕組みを知ると、どんな生き方が導き出されるのか、ということについて、思いつくままに考えてみたいと思う。
まだまだこれからも親鸞会で学んでいきますよ。
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
中断していましたが、運命の仕組み「因果の道理」について、これまでの僕の理解をまとめる続きです。
・結果には必ず原因がある。「まいたタネは必ず生える。まかぬタネは絶対生えぬ」
・あらゆる結果は、「因」と「縁」が和合して現れる。
因と縁、どちらか一方が欠けても結果は生じない。その意味で因と縁は同等。
・因とは自分の行為(業)であり、自分の行いが自分の運命を生み出す(自業自得)。
・行為には、身口意の三業がある。
・私の善悪の行為は、目に見えない不滅の力(業力)となって永遠の生命に蓄えられる。これを業因とも業種子ともいわれる。
・業因に縁が結びついて、善悪の結果(運命)を生み出す。
・縁には、選べる縁と選べない縁がある。
・自分に現れた運命を見れば、記憶の有無に関わらず、そのような運命を生み出す業因を自分が過去につくったことが分かる。
・他因自果(他人の行為が因となり、自分の運命を生み出す)は絶対になく、他因自果のように思える他因は、縁である。
・縁を因と混同して、他を恨み呪っている愚かさを「縄をうらむ泥棒」といわれる。
・とはいえ縁は、結果を生み出す重要な働きをするから、悪い縁は排除しなければならない。
これまで親鸞会の座談会などで聞いてきた断片を、整理してみました。もっといろいろあるかもしれないけど、おさらいはこれくらいにして、この運命の仕組みを知ると、どんな生き方が導き出されるのか、ということについて、思いつくままに考えてみたいと思う。
まだまだこれからも親鸞会で学んでいきますよ。
12月 10
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。前回に続き、報恩講のお話から。
東日本大震災から4年8カ月。私たちは何を学んだだろう。あるテレビでは「ぐらっときたら逃げる」ことを学んだと言っていた。それは間違いないけど、揺れを感じてすぐ高台に走り、津波から逃げられたとしても、その時は死なずに済んだということであって、死ななくなったわけではない。人間の営みは、いかに死を遠ざけて長生きするかという一点に注がれているが、たとえ科学や医学の力で、災害や病気から死を遠ざけることはできても、死から逃げ切ることは絶対不可能です。ならば、難度海を度する大船に乗る以外に、ほんとうの意味での救いはないことを、この世の悲劇から学ぶべきではないだろうか……。と、深く考えさせられるお話でした。
では、その大きな船に乗ったら、どんな絶景が広がるのか。絶対の幸福といわれる、その幸せとは?それについても詳しく聞かせてもらいましたが、とても僕にはうまく書けないので、ぜひ親鸞会の法話で直接聞いてください。
とりあえず、報恩講で特に心に残った3つのことを、書き留めてみました。これからも親鸞会で聞いたお話の感想、還元していきます!
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。前回に続き、報恩講のお話から。
東日本大震災から4年8カ月。私たちは何を学んだだろう。あるテレビでは「ぐらっときたら逃げる」ことを学んだと言っていた。それは間違いないけど、揺れを感じてすぐ高台に走り、津波から逃げられたとしても、その時は死なずに済んだということであって、死ななくなったわけではない。人間の営みは、いかに死を遠ざけて長生きするかという一点に注がれているが、たとえ科学や医学の力で、災害や病気から死を遠ざけることはできても、死から逃げ切ることは絶対不可能です。ならば、難度海を度する大船に乗る以外に、ほんとうの意味での救いはないことを、この世の悲劇から学ぶべきではないだろうか……。と、深く考えさせられるお話でした。
では、その大きな船に乗ったら、どんな絶景が広がるのか。絶対の幸福といわれる、その幸せとは?それについても詳しく聞かせてもらいましたが、とても僕にはうまく書けないので、ぜひ親鸞会の法話で直接聞いてください。
とりあえず、報恩講で特に心に残った3つのことを、書き留めてみました。これからも親鸞会で聞いたお話の感想、還元していきます!
11月 30
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。前回に続き、報恩講で聞いた内容について。
親鸞聖人は人生を「難度海」と言われている。「渡ることが難しい海」と書いて「なんどかい」。それは「苦難、困難、災難」の波に翻弄されるから。そして私たちが気をつけなければならないのは「有頂天」の時。有頂天がいちばん危ないということを、教えてもらいました。
有頂天とは、山の頂上に有るということですよね。「人は山の頂上に登ることはできても、そこに長くとどまることはできない」といわれます。頂上まで達したら、あとは降りるしかない。転落するしかない。人生でも何もかも調子のいい、絶好調のときほど、足下をすくわれやすい。……うーん、間違いない真理だと思います。
親鸞会のお話では、シルバーウィークにあった川釣りボートの転落事故などを例にお話されましたが、最高に幸せな瞬間から一転して地獄を味わう火宅無常の世界の恐ろしさ、幸せのもろさ、はかなさ、不確かさに、気づかぬわけにはいきません。
そんな難度海に、そんな難度海を、明るく楽しく渡す「大船」がある、というのが、親鸞聖人90年の教えなんですね!あれれ、「念仏称えたら誰でも極楽」という世間の常識とはずいぶん違う印象です。ボクも驚きの連続でしたが、親鸞聖人の教えに触れるなら、親鸞会がイチ押しですかね。
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。前回に続き、報恩講で聞いた内容について。
親鸞聖人は人生を「難度海」と言われている。「渡ることが難しい海」と書いて「なんどかい」。それは「苦難、困難、災難」の波に翻弄されるから。そして私たちが気をつけなければならないのは「有頂天」の時。有頂天がいちばん危ないということを、教えてもらいました。
有頂天とは、山の頂上に有るということですよね。「人は山の頂上に登ることはできても、そこに長くとどまることはできない」といわれます。頂上まで達したら、あとは降りるしかない。転落するしかない。人生でも何もかも調子のいい、絶好調のときほど、足下をすくわれやすい。……うーん、間違いない真理だと思います。
親鸞会のお話では、シルバーウィークにあった川釣りボートの転落事故などを例にお話されましたが、最高に幸せな瞬間から一転して地獄を味わう火宅無常の世界の恐ろしさ、幸せのもろさ、はかなさ、不確かさに、気づかぬわけにはいきません。
そんな難度海に、そんな難度海を、明るく楽しく渡す「大船」がある、というのが、親鸞聖人90年の教えなんですね!あれれ、「念仏称えたら誰でも極楽」という世間の常識とはずいぶん違う印象です。ボクも驚きの連続でしたが、親鸞聖人の教えに触れるなら、親鸞会がイチ押しですかね。
10月 31
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
因果の道理について続けて書くつもりだったけど、先日、報恩講という大きな行事があり、心に残るお話が多かったので、ちょっとその内容について書いておきたいと思う。
親鸞聖人は、この人生を「難度海」と言われている。渡ることが難しい海と書いて「なんどかい」。なぜ人生は難度海になるのかって、それは苦しみの波が次から次へとやってくるから。「難」とは苦難、困難、災難の「難」と聞かせてもらいました。
苦難とは、生きているといろいろな苦しみがあって、病気、事故、借金、リストラ、人間関係など。夜型のボクの場合、特に冬の朝、布団から出るのがまず苦しい(たいした波じゃない?)
困難とは、困ったなあ、どうしよう、ということが人生には多々あって、親鸞会のお話では「いぬるとしぬるで地獄なり」ということわざ?を聞かせてもらいました。
「いぬる」とは、嫁が「あんなお母さんと一緒に暮らすぐらいなら、私はこの家を出ていく」と夫にいう。「しぬる」というのは息子の母親が「あんな嫁と一緒に暮らすぐらいなら、死にたい」と息子にいう。妻(嫁)と母親にはさまれた息子は毎日が「地獄」だということだそうです。シチュエーションは違っても、これと似たような、板挟みでにっちもさっちもいかず、困ってしまうこと、いろいろありますよね。
ちょっとレベルは違うけど、一人としか結婚できないのに、同等に好きな人が三人も四人もあらわれたら、これはたぶんきっとつらい。好きという感情は理屈でどうこうできないし、「なぜ一人を選ばなければならなんだー!!」と悶絶するのはボクだけだろうか。恋の道も困難なり。
災難とは、毎日のニュースで見聞きするとおり、ビルの火災。集中豪雨で川が氾濫。台風の被害などなど。ほんとうに、こちらがどれだけ気をつけても、つねに想定外の時限爆弾が埋め込まれている世界の側の不確かさに、みんな不安を抱えて生きているよね。「火宅無常の世界」とは、よくぞ言われたもの。
この難度海を幸せに渡す「大船」の存在一つ教えられたのが親鸞聖人90年の教えだったことを、親鸞会のお話で聞かせてもらいましたが、難度海について、もう一つ、心に残った内容があるので、次回に書きます。
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
因果の道理について続けて書くつもりだったけど、先日、報恩講という大きな行事があり、心に残るお話が多かったので、ちょっとその内容について書いておきたいと思う。
親鸞聖人は、この人生を「難度海」と言われている。渡ることが難しい海と書いて「なんどかい」。なぜ人生は難度海になるのかって、それは苦しみの波が次から次へとやってくるから。「難」とは苦難、困難、災難の「難」と聞かせてもらいました。
苦難とは、生きているといろいろな苦しみがあって、病気、事故、借金、リストラ、人間関係など。夜型のボクの場合、特に冬の朝、布団から出るのがまず苦しい(たいした波じゃない?)
困難とは、困ったなあ、どうしよう、ということが人生には多々あって、親鸞会のお話では「いぬるとしぬるで地獄なり」ということわざ?を聞かせてもらいました。
「いぬる」とは、嫁が「あんなお母さんと一緒に暮らすぐらいなら、私はこの家を出ていく」と夫にいう。「しぬる」というのは息子の母親が「あんな嫁と一緒に暮らすぐらいなら、死にたい」と息子にいう。妻(嫁)と母親にはさまれた息子は毎日が「地獄」だということだそうです。シチュエーションは違っても、これと似たような、板挟みでにっちもさっちもいかず、困ってしまうこと、いろいろありますよね。
ちょっとレベルは違うけど、一人としか結婚できないのに、同等に好きな人が三人も四人もあらわれたら、これはたぶんきっとつらい。好きという感情は理屈でどうこうできないし、「なぜ一人を選ばなければならなんだー!!」と悶絶するのはボクだけだろうか。恋の道も困難なり。
災難とは、毎日のニュースで見聞きするとおり、ビルの火災。集中豪雨で川が氾濫。台風の被害などなど。ほんとうに、こちらがどれだけ気をつけても、つねに想定外の時限爆弾が埋め込まれている世界の側の不確かさに、みんな不安を抱えて生きているよね。「火宅無常の世界」とは、よくぞ言われたもの。
この難度海を幸せに渡す「大船」の存在一つ教えられたのが親鸞聖人90年の教えだったことを、親鸞会のお話で聞かせてもらいましたが、難度海について、もう一つ、心に残った内容があるので、次回に書きます。
10月 1

親鸞会で聞いたお話の感想をつづっています。前回のつづきで、因果の道理の「業力」について。

仏教では、幸福も不幸も、自分に現れる運命はすべて「自業自得」と教えられ、自分の行為(業)が、自分の運命を生み出す(自得)と学びました。

これを「自因自果」ともいい、行為と結果の関係は、「善因善果」「悪因悪果」という法則が成り立っている。

すなわち、まいた種に応じた結果が現れるから、まいている種(行為)を見れば、未来に生える結果(幸不幸の運命)も分かるし、生えた結果(幸不幸の運命)を見れば、過去にまいた種(行為)の善悪も分かる。

ということですが、

しかし、生えた結果を見ても、自分のまいた種(行為)とは思えない、つまり他因自果としか思えない事例もよくあります。それは、すべての結果は因と縁が結びついて現れ、その縁と因の関係を知らないところにも、原因があると思います。

しかし、因と縁の関係を知り、他因と思っていたものは縁であると理解しても、なお、ではそんな結果を生み出した自分の行為(因)とは何なのか、どうしてこの行為がこんな結果を生み出すのかと納得できない、もやもやしたものが残る事例も多いのではないでしょうか。

それはたぶん、仏教で説かれる「行為が運命を生み出す」という意味を、私たちが正確にとらえていないからではないだろうか。まわりくどい書き方になっているかもしれないけど。

このあたりの理解の鍵をにぎるのが、きっと「業力」ということだと思う。

ボクの理解では、私たちの行為(身と口と意の三業がある)は、目に見えない力=業力となって、アラヤ識という私の本心に残り、決して消えない(業力不滅)。これをまた「業種子」とも「業因」ともいわれ、その「業因」に「縁」が結びついたときに、運命という目に見える「結果」を生み出すというのが、「行為が運命を生み出す」ということの、正確な意味ではないだろうか。。。

親鸞会で聞いたお話の中に、

「年ごとに 咲くや吉野の 山桜 木を割りてみよ 花のありかは」

という歌がでてきました。山が桜か桜が山かといわれる桜の名所・吉野山に冬にいくと、枯れ木のような木ばかり。どこに花を隠しているのかと木を割ってみても花びら一枚でてはこない。

けれども生きている木には花を咲かせる勢力があって、それが春の陽気という縁に触れることによって、目に見える美しい桜の花を咲かせるように、私たちの行為は目に見えない業力となってアラヤ識に蓄えられている。それが縁と結びついて、目に見える幸不幸の運命を生み出すということですね。

そうすると、こういうことも導き出されるのではないかと思います。

「ある善悪の行為(業因)に対して、その結果が現れるのには、時間差がありえる」

次回につづく。

親鸞会で続けて学んでいきたい。

7月 2
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
仏法の本(根幹)といわれる因果の道理(因縁果の道理)について、続けて書いてきましたが、先日お話を聞いてまた、少し最初に戻って書きたいことができました。
それがタイトルの「教と法」です。仏教とは、お釈迦さまの説かれた教えで、それをまた仏法ともいわれることは、以前にも触れ、ご存じのとおりです。
仏教で、法とは「三世十方を貫くもの」(古今東西変わらないもの)をいわれ、そんな法しか説かれていないから、仏教のことを仏法ともいわれるのでした。
ということは……教=法だったのです。先日の親鸞会のお話で、この点を教えてもらいました。何がいいたいかというと「教え」とは三世十方を貫くものをいう、ということです。(皆さん、気づいてましたね、たぶん。僕が鈍かっただけで)
そして、そんな三世十方を貫くことだけを説かれているのが、仏教(=仏法)ということです。因果の道理だけでなく仏教に説かれることは、みんなそうですよね。いつの時代、どこの国の人にも通じることしか教えられていない。それが仏教(=仏法)なんですね。
親鸞聖人も、「更に親鸞、珍しき法を弘めず、如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」と、常に言われているそうです。
この如来とは、釈迦如来(お釈迦さま)のことで、お釈迦さまの教えを「如来の教法」といわれ、ここでは教と法を重ねて言われています。親鸞聖人も、三世十方を貫く「如来の教法」以外の珍しい説を弘めたことは全くない、とキッパリ断言されています。
なぜ改めてこのことを書きたかったかというと「仏教を聞いて感じる安心感はこれか!」と、僕は気づいたからです。僕自身が、いわば人生に(魂の)救いを求めて、いろいろな思想や哲学、市井の言葉や意見に耳を傾けて日々生きているわけですが、人生をゆだねるには、信頼に足りるものでなければ安心して自分に取り込めません。その点、三世十方を貫くことしか説かれていない、と言い切られる仏教(仏法)や親鸞聖人の教えって、かなりすごくないですか。そんなことを感じさせられた今回のご縁でした。それもこれも、親鸞会でお話を聞けたおかげと感謝しています。

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。

仏法の本(根幹)といわれる因果の道理(因縁果の道理)について、続けて書いてきましたが、先日お話を聞いてまた、少し最初に戻って書きたいことができました。

それがタイトルの「教と法」です。仏教とは、お釈迦さまの説かれた教えで、それをまた仏法ともいわれることは、以前にも触れ、ご存じのとおりです。

仏教で、法とは「三世十方を貫くもの」(古今東西変わらないもの)をいわれ、そんな法しか説かれていないから、仏教のことを仏法ともいわれるのでした。

ということは……教=法だったのです。先日の親鸞会のお話で、この点を教えてもらいました。何がいいたいかというと「教え」とは三世十方を貫くものをいう、ということです。(皆さん、気づいてましたね、たぶん。僕が鈍かっただけで)

そして、そんな三世十方を貫くことだけを説かれているのが、仏教(=仏法)ということです。因果の道理だけでなく仏教に説かれることは、みんなそうですよね。いつの時代、どこの国の人にも通じることしか教えられていない。それが仏教(=仏法)なんですね。

親鸞聖人も、「更に親鸞、珍しき法を弘めず、如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」と、常に言われているそうです。

この如来とは、釈迦如来(お釈迦さま)のことで、お釈迦さまの教えを「如来の教法」といわれ、ここでは教と法を重ねて言われています。親鸞聖人も、三世十方を貫く「如来の教法」以外の珍しい説を弘めたことは全くない、とキッパリ断言されています。

なぜ改めてこのことを書きたかったかというと「仏教を聞いて感じる安心感はこれか!」と、僕は気づいたからです。僕自身が、いわば人生に(魂の)救いを求めて、いろいろな思想や哲学、市井の言葉や意見に耳を傾けて日々生きているわけですが、人生をゆだねるには、信頼に足りるものでなければ安心して自分に取り込めません。その点、三世十方を貫くことしか説かれていない、と言い切られる仏教(仏法)や親鸞聖人の教えって、かなりすごくないですか。そんなことを感じさせられた今回のご縁でした。それもこれも、親鸞会でお話を聞けたおかげと感謝しています。

6月 5
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
私たちの運命は、すべて過去の自分の行為が生み出した「自業自得」(自分の行為=自業が自分の運命をつくる=自得)・「自因自果」であり、「他因自果」(他のまいた種の結果が自分に現れる)は絶対にない、と教えられるのが仏教の因果の道理であることを学んできました。
さらに因果の道理は正確には「因縁果の道理」。すべての結果は因と縁が結びついて生じる。因だけでも結果は生じないし、縁だけでも結果は生じない。因とは自分自身の行為(業力)であり、縁とは因が結果を生み出すのを助けるものであるということも親鸞会のお話で習いました。
「縄をうらむ泥棒」ということわざがあるそうです。泥棒が、他人のものを盗んで警察に捕まり、縄にしばられて苦しんでいる。なぜ泥棒は今そんな苦しい目に遭っているのか。それは他人のものを盗むという行為を泥棒自身がしたからにほかならない。自分の行為の結果が現れて苦しんでいるわけですね。ところが自分を苦しめているのは、この縄のせいだと、縄をうらんでいる泥棒がいたとしたら、こんな愚かな泥棒はいません。「縄をうらむ泥棒」とは、そのように自分の種まきをたなにあげて、おかどちがいのものをうらんでいる愚かさをわらったことわざですが、この場合、縄は「縁」ということになりますよね。泥棒は自分の「因」をうらまねばならないのに「縁」をうらんでいるから、おかしいわけです。「他因自果」だと思っているのは、因と縁をごちゃにして、縁をうらんでいる姿だということが、親鸞会のお話を聞いて分かりました。

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。

私たちの運命は、すべて過去の自分の行為が生み出した「自業自得」(自分の行為=自業が自分の運命をつくる=自得)・「自因自果」であり、「他因自果」(他のまいた種の結果が自分に現れる)は絶対にない、と教えられるのが仏教の因果の道理であることを学んできました。

さらに因果の道理は正確には「因縁果の道理」。すべての結果は因と縁が結びついて生じる。因だけでも結果は生じないし、縁だけでも結果は生じない。因とは自分自身の行為(業力)であり、縁とは因が結果を生み出すのを助けるものであるということも親鸞会のお話で習いました。

「縄をうらむ泥棒」ということわざがあるそうです。泥棒が、他人のものを盗んで警察に捕まり、縄にしばられて苦しんでいる。なぜ泥棒は今そんな苦しい目に遭っているのか。それは他人のものを盗むという行為を泥棒自身がしたからにほかならない。自分の行為の結果が現れて苦しんでいるわけですね。ところが自分を苦しめているのは、この縄のせいだと、縄をうらんでいる泥棒がいたとしたら、こんな愚かな泥棒はいません。「縄をうらむ泥棒」とは、そのように自分の種まきをたなにあげて、おかどちがいのものをうらんでいる愚かさをわらったことわざですが、この場合、縄は「縁」ということになりますよね。泥棒は自分の「因」をうらまねばならないのに「縁」をうらんでいるから、おかしいわけです。「他因自果」だと思っているのは、因と縁をごちゃにして、縁をうらんでいる姿だということが、親鸞会のお話を聞いて分かりました。

5月 26
親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
私たちの「運命」は、神が決めたのでもなければ先祖のたたりでもない。偶然決まるのでもなければキツネやタヌキの霊のせいでもない。自分の身に起きる一切の結果は、過去の自分の行為(種まき)が生み出したものであり、すべて「自業自得」(自分の行為=自業が自分の運命をつくる=自得)と教えるのが、仏教なんですね。
その行為と運命の仕組みを解明したのが「因縁果の道理」でした。すべての結果は因と縁が結びついて生じる。因だけでも結果は生じないし、縁だけでも結果は生じない。因とは自分自身の行為(業力)であり、縁とは因が結果を生み出すのを助けるもの。
親鸞会のお話では、米を例に教えてもらいました。米という結果の因はモミダネ。モミダネがなければ米は絶対にできない。しかし、モミダネさえあれば米ができるかといえば、机の上や南極の氷の上にモミダネをおいておいても米にはならない。水や土、日光、温度、農家の人の手間ひまなどがそろってはじめて米ができる。そのようにモミダネが米になるのを助けるものが縁であり、因縁がそろわなければ結果は生じない。もっともです。
そういえば「縄をうらむ泥棒」ということわざも、親鸞会のお話で習いました。これも、因縁果の道理を知ると、よく理解できる気がします。

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。

私たちの「運命」は、神が決めたのでもなければ先祖のたたりでもない。偶然決まるのでもなければキツネやタヌキの霊のせいでもない。自分の身に起きる一切の結果は、過去の自分の行為(種まき)が生み出したものであり、すべて「自業自得」(自分の行為=自業が自分の運命をつくる=自得)と教えるのが、仏教なんですね。

その行為と運命の仕組みを解明したのが「因縁果の道理」でした。すべての結果は因と縁が結びついて生じる。因だけでも結果は生じないし、縁だけでも結果は生じない。因とは自分自身の行為(業力)であり、縁とは因が結果を生み出すのを助けるもの。

親鸞会のお話では、米を例に教えてもらいました。米という結果の因はモミダネ。モミダネがなければ米は絶対にできない。しかし、モミダネさえあれば米ができるかといえば、机の上や南極の氷の上にモミダネをおいておいても米にはならない。水や土、日光、温度、農家の人の手間ひまなどがそろってはじめて米ができる。そのようにモミダネが米になるのを助けるものが縁であり、因縁がそろわなければ結果は生じない。もっともです。

そういえば「縄をうらむ泥棒」ということわざも、親鸞会のお話で習いました。これも、因縁果の道理を知ると、よく理解できる気がします。

« Previous Entries Next Entries »