親鸞会『人身受け難し』

先日の親鸞会館で親鸞聖人の講演会がありました。
今日は、そのお話の内容を書く前に親鸞会で発見したことを少しお話したいと思います。
親鸞会について話してきましたが、浄土真宗親鸞会では会長の高森顕徹先生が
親鸞聖人の教えを手垢をつけず、そのまま話をされています。
当然ですが、最初から今のように大きな会館だったわけではなく、誰も聞く人がないなか、辻説法から始まったそうです。

そんな親鸞会の簡単な経緯をお話したところで、今回親鸞会で聞くことができた内容をお話したいと思います。
その内容は、「人身受け難し」のお釈迦さまのお言葉についてでした。

その時、盲亀浮木の譬というたとえ話がなされました。

※わかりやすい動画がこちらにあります。
http://www.shinrankai.or.jp/s/movie/moukihuboku/index.htm

世に難しいことは多々あれども、盲亀浮木の譬のような「難」とはくらべるべくもなく、いかに人間に生まれることが有難いか改めて知らされました。

しかしただ確率が低くても、そこに「喜び」がなければ、意味がありません。
現実にはせっかく人間に生まれても、喜びの声は聞こえず、“科学、医学、政治、経済などの進歩”と“幸福”とは次元を異にしているかのようです。
皆、空と水しか見えない人生という海に溺れ、方向を見失っています。
哲学者ニーチェは「偉大とは方向を示すことだ」と言い、文学者カフカは「われわれが欲しいのは出口です」と叫び、泳ぎ方よりも、泳ぐ方向の重要性を訴えましたが、西洋答えを見出すことは出来ませんでした。
「進む方角が分かっただけで目的地についていないから意味がない」
などといっている人は、いまだ自分が水平線のど真ん中にいることすら理解できていないのだと思います。
そんな中、と進むべき方向を明らかに知らされた人は本当に幸福者だと感じました。

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