親鸞会「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり(5)」

前回アップロードしたはずなのに(4)が消えていることに気づきました。しかたない・・・。
気を取りなおして、親鸞会の勉強会で聞いた「白骨の章」について、感想を綴っていきます。
今回は「我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず」の箇所について取り上げたいと思います。
直訳すれば、たぶん「私が先に死ぬかもしれない。人が先に死ぬかもしれない。死ぬのは今日かもしれない。明日かもしれない」ということになるかと思いますが。
一見、何の変哲もない一文のように思いますよね。
でもじつは、ここに深い仏教の教えが隠されていました。どういうことかというと、迷った存在である人間は、死はいつも他人事で、「人や先、人や先」としか思えません。少し真面目に人生を見つめている人でも、「人や先、我や先」と思って、やっぱり死ぬのは他人が先としか思えません。つまり結局、自分はまだ死なない、今日も明日も、ずっと生きていられる、という心から離れられないということ。
そんな私たちに、「我や先」ですよ、と、バケツの水を顔面に浴びせて「目を覚ませ!」という感じで、教えられているところなんです。親鸞会の勉強会では、こんな昔の歌も教わりました。
「鳥辺山 昨日の煙 今日もたつ 眺めて通る 人もいつまで」
鳥辺山というのは昔、火葬場があった山で、鳥辺山といえば火葬場を表すとか。その鳥辺山の麓を通った人が、「昨日も人が死んで焼かれる煙が立っていたが、今日も人が死んだのか。よく人が死ぬなあ」と眺めている。しかし、そうやって眺めて通る人も、いつまでも眺める側にいられるのではない。やがて自分が死んで焼かれ、その煙を他人から眺められる時がくるのですよ。それを忘れてはいませんか、ということですね。
昨年の大晦日の昼、家族5人の乗った車が立体駐車場の5階から転落して3人が亡くなるという、すごく悲しい事故がありました。きっと明日の元日には、一家でゆっくり過ごそうと楽しみにしていたと思います。そうかと思えば、年が明けて間もなく、もちをノドに詰まらせて病院に運ばれ、亡くなった方も何人もあります。毎日、毎日、いかにも死にそうだった人ばかりが亡くなっているのではなくて、まさか今日や明日に死ぬわけがないと、死ぬことなんてこれっぽっちも想定していなかっただろう方々が亡くなっているニュースを僕たちは聞いて知っています。その死亡ニュースが、自分であってもおかしくないと、頭では分かりますよね。それでもやっぱり、「人や先、我や先」までしか、僕たちの思いはたどりつけない。明日、自分が死ぬ、とは、もう思えない。
そんな自分の心の実態を、知れば知るほど、「我や先、人や先」の一文は、迷いの人間の心に切り込む、仏教でなければ言えないすごい一言なんだということが、じわじわと分かってきました。「白骨の章」おそるべし、というほかありません。

とても深いお話なので、関心のある方は、親鸞会の勉強会に参加して聞いてみられることを、おすすめします。

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