親鸞会「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり(1)」

親鸞会で聞いたお話をつづっていますが、今回は、勉強会で聞いたお話です。
浄土真宗に「白骨の章」という有名な文章があります。これは、親鸞聖人から200年後、室町時代に、浄土真宗を日本全国に広められた蓮如上人の「御文章(おふみ)」の一つ。名文としても名高く、読んでみると、本当に心にしみいる感じで、なんというか、こう、「正気に戻る感じ」です。じゃあ、それまでは狂っているのか、と言われそうですが、はい、たぶん「欲や怒り、ねたみそねみの煩悩」に狂っているのだと思います。百聞は一見にしかず、で、まずは全文をどうぞ。
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期(いちご)なり。
さればいまだ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装(とうりのよそおい)を失いぬるときは、六親・眷属(けんぞく)集まりて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ
どうでしょう?しんみり。。。きます。浄土真宗の葬儀では必ず読まれるようですが(僕もそんなに葬儀に参列した経験はありませんが)詳しく解説を聞いたのは、親鸞会の勉強会が初めてかもしれません。これは繰り返し聞かせてもらわなければ、と思いました。また親鸞会の勉強会に足を運んでみたいと思います。

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