親鸞会「神や仏を信じるだけが信心じゃない!(その4)」

「信心」という言葉を聞いて、どんな印象を受けるか、というのは人それぞれだと思いますが、僕は正直、嫌な感じを受けます。それはたぶん、宗教=信心=盲信みたいなイメージがあるから。そんな僕にとって、「信心」といっても4通りあるという親鸞会のお話は、目からウロコが落ちるものでした。
4つのうちの1つ目は、神や仏を信じてご利益を願う信心。僕が嫌な感じを受ける信心はここに入りそうです。2つ目は、心で何かを信じる信心。例えば、金こそ幸せという金信心、健康こそ幸せと信じている健康信心、子供の存在が私の幸せという子供信心など、など。何を信じるかは人それぞれ違いますが、人は何かを信じ、支えにし、頼りにしなければ、生きてはいけないということは、間違いなさそうです。
ところが、ここで大きな問題が立ちはだかります。それは、これらの信心は、いずれも、今日あって明日なき無常のものを信じているために、常に壊れはしないかという不安がつきまとって離れない、という問題。この問題がやっかいなのは、この不安は、信じるものを変えようがなくならないし、深く信じれば何とかなる、という問題でもないところ。「構造的に解消不能」といえばいいか。何をどう信じても、どうあがいても逃れられない。詩的にいえば、人生って、こういうふうに呪われているんだ、みたいな。かりに何もかも無常と認めてしまえば、崩れても苦しまず、すましていられるのかもしれないけど、それで幸せと感じられるのだろうか。ただの不感症では。
「諸行無常」と説かれたお釈迦さまの、さとりの第一声が「人生は苦なり」だと聞いたことがあるけど、間違いなく「人生って苦しいこと多いよね」程度の単純な意味じゃないと思う。仏のさとりをひらかれて教えられたというからには。もしかしたら、この構造的に不安のまじった幸せ(信心)しかありえない僕たちの人生は、生まれてから死ぬまで不安に覆われていることを「人生は苦なり」と言い表されているんじゃないだろうか、なんてことを考えている今日このごろです。極めつけは、たとえしばらく幸せが続いても、死という総崩れの終末が迫っているという現実です。親鸞会のお話で、蓮如上人という方の言葉を習いました。
「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝もわが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路の末・三塗の大河をばただ一人こそ行きなんずれ」
いよいよ死ぬときには、それまで信じ、頼りにしてきた妻も子供も、お金や財産も何一つ持ってはいけない。すべてに見捨てられ、たった一人で次の世に旅出っていかなければならない、と。
この構造的に解消不能な幸せ問題に対して、仏教にはどんな解答があるのか、というのが次の問題です。
引き続き、親鸞会のお話を聞いて勉強したいと思います。

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