親鸞会「業力(ごうりき)と業因(ごういん)」

親鸞会で聞いたお話の感想をつづっています。前回のつづきで、因果の道理の「業力」について。

仏教では、幸福も不幸も、自分に現れる運命はすべて「自業自得」と教えられ、自分の行為(業)が、自分の運命を生み出す(自得)と学びました。

これを「自因自果」ともいい、行為と結果の関係は、「善因善果」「悪因悪果」という法則が成り立っている。

すなわち、まいた種に応じた結果が現れるから、まいている種(行為)を見れば、未来に生える結果(幸不幸の運命)も分かるし、生えた結果(幸不幸の運命)を見れば、過去にまいた種(行為)の善悪も分かる。

ということですが、

しかし、生えた結果を見ても、自分のまいた種(行為)とは思えない、つまり他因自果としか思えない事例もよくあります。それは、すべての結果は因と縁が結びついて現れ、その縁と因の関係を知らないところにも、原因があると思います。

しかし、因と縁の関係を知り、他因と思っていたものは縁であると理解しても、なお、ではそんな結果を生み出した自分の行為(因)とは何なのか、どうしてこの行為がこんな結果を生み出すのかと納得できない、もやもやしたものが残る事例も多いのではないでしょうか。

それはたぶん、仏教で説かれる「行為が運命を生み出す」という意味を、私たちが正確にとらえていないからではないだろうか。まわりくどい書き方になっているかもしれないけど。

このあたりの理解の鍵をにぎるのが、きっと「業力」ということだと思う。

ボクの理解では、私たちの行為(身と口と意の三業がある)は、目に見えない力=業力となって、アラヤ識という私の本心に残り、決して消えない(業力不滅)。これをまた「業種子」とも「業因」ともいわれ、その「業因」に「縁」が結びついたときに、運命という目に見える「結果」を生み出すというのが、「行為が運命を生み出す」ということの、正確な意味ではないだろうか。。。

親鸞会で聞いたお話の中に、

「年ごとに 咲くや吉野の 山桜 木を割りてみよ 花のありかは」

という歌がでてきました。山が桜か桜が山かといわれる桜の名所・吉野山に冬にいくと、枯れ木のような木ばかり。どこに花を隠しているのかと木を割ってみても花びら一枚でてはこない。

けれども生きている木には花を咲かせる勢力があって、それが春の陽気という縁に触れることによって、目に見える美しい桜の花を咲かせるように、私たちの行為は目に見えない業力となってアラヤ識に蓄えられている。それが縁と結びついて、目に見える幸不幸の運命を生み出すということですね。

そうすると、こういうことも導き出されるのではないかと思います。

「ある善悪の行為(業因)に対して、その結果が現れるのには、時間差がありえる」

次回につづく。

親鸞会で続けて学んでいきたい。

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