親鸞会「教と法」

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。
仏法の本(根幹)といわれる因果の道理(因縁果の道理)について、続けて書いてきましたが、先日お話を聞いてまた、少し最初に戻って書きたいことができました。
それがタイトルの「教と法」です。仏教とは、お釈迦さまの説かれた教えで、それをまた仏法ともいわれることは、以前にも触れ、ご存じのとおりです。
仏教で、法とは「三世十方を貫くもの」(古今東西変わらないもの)をいわれ、そんな法しか説かれていないから、仏教のことを仏法ともいわれるのでした。
ということは……教=法だったのです。先日の親鸞会のお話で、この点を教えてもらいました。何がいいたいかというと「教え」とは三世十方を貫くものをいう、ということです。(皆さん、気づいてましたね、たぶん。僕が鈍かっただけで)
そして、そんな三世十方を貫くことだけを説かれているのが、仏教(=仏法)ということです。因果の道理だけでなく仏教に説かれることは、みんなそうですよね。いつの時代、どこの国の人にも通じることしか教えられていない。それが仏教(=仏法)なんですね。
親鸞聖人も、「更に親鸞、珍しき法を弘めず、如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」と、常に言われているそうです。
この如来とは、釈迦如来(お釈迦さま)のことで、お釈迦さまの教えを「如来の教法」といわれ、ここでは教と法を重ねて言われています。親鸞聖人も、三世十方を貫く「如来の教法」以外の珍しい説を弘めたことは全くない、とキッパリ断言されています。
なぜ改めてこのことを書きたかったかというと「仏教を聞いて感じる安心感はこれか!」と、僕は気づいたからです。僕自身が、いわば人生に(魂の)救いを求めて、いろいろな思想や哲学、市井の言葉や意見に耳を傾けて日々生きているわけですが、人生をゆだねるには、信頼に足りるものでなければ安心して自分に取り込めません。その点、三世十方を貫くことしか説かれていない、と言い切られる仏教(仏法)や親鸞聖人の教えって、かなりすごくないですか。そんなことを感じさせられた今回のご縁でした。それもこれも、親鸞会でお話を聞けたおかげと感謝しています。

親鸞会で聞いたお話の感想を綴っています。

仏法の本(根幹)といわれる因果の道理(因縁果の道理)について、続けて書いてきましたが、先日お話を聞いてまた、少し最初に戻って書きたいことができました。

それがタイトルの「教と法」です。仏教とは、お釈迦さまの説かれた教えで、それをまた仏法ともいわれることは、以前にも触れ、ご存じのとおりです。

仏教で、法とは「三世十方を貫くもの」(古今東西変わらないもの)をいわれ、そんな法しか説かれていないから、仏教のことを仏法ともいわれるのでした。

ということは……教=法だったのです。先日の親鸞会のお話で、この点を教えてもらいました。何がいいたいかというと「教え」とは三世十方を貫くものをいう、ということです。(皆さん、気づいてましたね、たぶん。僕が鈍かっただけで)

そして、そんな三世十方を貫くことだけを説かれているのが、仏教(=仏法)ということです。因果の道理だけでなく仏教に説かれることは、みんなそうですよね。いつの時代、どこの国の人にも通じることしか教えられていない。それが仏教(=仏法)なんですね。

親鸞聖人も、「更に親鸞、珍しき法を弘めず、如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」と、常に言われているそうです。

この如来とは、釈迦如来(お釈迦さま)のことで、お釈迦さまの教えを「如来の教法」といわれ、ここでは教と法を重ねて言われています。親鸞聖人も、三世十方を貫く「如来の教法」以外の珍しい説を弘めたことは全くない、とキッパリ断言されています。

なぜ改めてこのことを書きたかったかというと「仏教を聞いて感じる安心感はこれか!」と、僕は気づいたからです。僕自身が、いわば人生に(魂の)救いを求めて、いろいろな思想や哲学、市井の言葉や意見に耳を傾けて日々生きているわけですが、人生をゆだねるには、信頼に足りるものでなければ安心して自分に取り込めません。その点、三世十方を貫くことしか説かれていない、と言い切られる仏教(仏法)や親鸞聖人の教えって、かなりすごくないですか。そんなことを感じさせられた今回のご縁でした。それもこれも、親鸞会でお話を聞けたおかげと感謝しています。

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