親鸞会「人間に生れたること大なる喜びなり」

ある日突然、航空機が消息を断ち、何百人の修学旅行生を乗せたフェリーが転覆し、観光バスが突っ込み、次々と命が消滅していくさまを見せられ、平穏な毎日が実は常に死と隣合わせであることを頭だけでも理解せずにはいられない今日このごろ、親鸞会で聞かせていただいた源信僧都の『横川法語』のお言葉が、ひときわ胸にずしんときました。

「まず三悪道を離れて人間に生るること、大なるよろこびなり。身は賤しくとも畜生に劣らんや、家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず。世の住み憂きは厭うたよりなり。このゆえに人間に生まれたることを喜ぶべし」(横川法語)

 三悪道とは地獄、餓鬼、畜生界の苦しみの激しい3つの世界をいうそうです。畜生界だけ考えてみても、アリや海に住む魚の数はどれほどか。虫の数はどうか。気が遠くなるほどたくさんの生き物がいる中で、それらに生まれず、人間に生まれることができたのは、大変喜ぶべきことだから、お釈迦さまは「人身受け難し 今已に受く」と教えられて「盲亀浮木のたとえ」を説かれていると、親鸞会のお話の中で、その例え話も聞きました。

 ある時、お釈迦さまが、お弟子の阿難に尋ねられました。
「そなたは人間に生まれたことをどう思っているか」「はい、大変喜んでおります」「どれくらい喜んでいるか」「どれくらいといわれましても・・・」と返答に窮していると、お釈迦さまは一つのたとえをもって示された。大海の底に目の見えない一匹の亀がいる。その盲亀が百年に一度、海面に浮かび上がって顔を出すのだ。広い海の上には一本の丸太が浮いている。丸太の真ん中には、ちょうど亀の頭が入るぐらいの穴が開いている。丸太は風のまにまに、西へ東へ、南へ北へと漂っている。阿難よ、この盲亀が百年に一度、海面に浮かび上がった拍子に、ひょいと丸太の穴へ顔をつっこむことがあると思うか。聞かれた阿難は驚いて、お釈迦さま、そんなことはとても考えられません。では絶対にないと言い切れるか。それは何億年かける何億年、何兆年かける何兆年の間には、ひょいと頭を入れることがあるかもしれませんが、ないといってもいいぐらい、有り難いことです。するとお釈迦さまは、そうだろう、人間に生まれることは、この亀が丸太の穴に顔を入れるよりも難しい、有り難いことなのだよ、と仰ったという。「有り難い」とは有ることが難しいということで、めったにないということ。人間に生まれるということは、これほど有り難いことなのだ、喜ぶべきことなのだとお釈迦さまは教えられた・・・。

 それを源信僧都は詳しく「身は賤しくとも畜生に劣らんや、家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず」と比較して、分かりやすく教えてくださっているのですね。

 一瞬で消滅するかもしれないこの命、人間に生まれた目的を、親鸞会の法話で、まじめに学んでいきたいと思う。

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