親鸞会『自利利他』

今日は親鸞会で「自利利他」ということを教えてもらいました。

自利利他とは、他人を幸せにする(利他)ままが、自分の幸せ(自利)になるということです。

情けは他人のためならず、という言葉があります。

最近では
「情けをかけるとあまやかされてその人の為にならないから、情けをかけないようにしよう」
など間違った理解がなされているようですが、本来の意味は「情けをかける(良いことをする)と、他人も幸せになるけれども何より自分の 幸せになる」ということなんです。

ついつい自分のことばかり考えてしまうけど、それは我利我利(ガリガリ)の考え。
周りの人も不幸にするし、結局自分も不幸になってしまうのです。

相手の他人の幸福を念じて行動する、それが他人も自分も幸せにする菩薩の道なのです。
では今日も一つのお話を紹介して終わりに致しましょう☆

(1) この柱も痛かったのようるわしき母子

かつて講演にゆく、車中での出来事である。
ちょうど車内は、空席が多く広々として静かであった。ゆったりとした気持ちで、周囲の座席を独占し、持参した書物を開いた。
どのくらいの時間が、たったであろうか。
読書の疲れと、リズミカルな列車の震動に、つい、ウトウトしはじめたころである。
けたたましい警笛と、鋭い急ブレーキの金属音が、夢心地を破った。
機関手が踏切で、なにか障害物を発見したらしい。
相当のショックで、前のめりになったが、あやうく転倒はまぬがれた。
同時に幼児の、かん高い泣き声がおきる。

ななめ右前の座席に、幼児を連れた若い母親が乗車していたことに気がついた。
たぶん子供に、窓ガラスに額をすりつけるようにして、飛んでゆく車窓の風光を、楽しませていたのであろう。
突然の衝撃に、幼児はその重い頭を強く窓枠にぶつけたようである。子供はなおも激しく、泣き叫んでいる。
けがを案じて立ってはみたが、たいしたこともなさそうなので、ホッとした。

直後に私は、思わぬほのぼのとした、心あたたまる情景に接して、感動したのである。
だいぶん痛みもおさまり、泣きやんだ子供の頭をなでながら、若きその母親は、やさしく子供に諭している。
「坊や、どんなにこそ痛かったでしょう。かわいそうに。お母さんがウンとなでてあげましょうね。でもね坊や、坊やも痛かったでしょうが、この柱も痛かったのよ。お母さんと一緒に、この柱もなでてあげようね」
こっくりこっくりと、うなずいた子供は、母と一緒になって窓枠をなでているではないか。
「坊や痛かったでしょう。かわいそうに。この柱が悪いのよ。柱をたたいてやろうね」
てっきり、こんな光景を想像していた私は赤面した。
こんなとき、母子ともども柱を打つことによって、子供の腹だちをしずめ、その場をおさめようとするのが、世のつねであるからである。
なにか人生の苦しみに出会ったとき、苦しみを与えたと思われる相手を探し出し、その相手を責めることによって己を納得させようとする習慣を、知らず知らずのうちに私たちは、子供に植えつけてはいないだろうか、と反省させられた。

三つ子の魂、百までとやら、母の子に与える影響ほど絶大なものはない。
相手の立場を理解しようとせず、己だけを主張する、我利我利亡者の未来は暗黒の地獄である。
光明輝く浄土に向かう者は、相手も生かし己も生きる、自利利他の大道を進まなければならない。
うるわしきこの母子に、〝まことの幸せあれかし〟と下車したのであった。

仏教に入門したばかりの私ですが、この母親の行動は仏教の教えや仏教用語を意識して起こした行動ではなく、2600年もの長い間、人に親しまれただけある仏教だからこそ自然に行動したのだと思います。
人と仏教の関係。
本当に奥が深いものですよね!

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