6月 28

先日、親鸞会館で「音羽の明詮」についての話があり、その話を聞くため親鸞会へ行きました。
そのお話の内容というのが次の通りです。

昔、明詮という僧が真剣に仏道修行をやっていたが、三年たっても一向に魂の解決のメドがつかなかったので、「オレは駄目な人間なのかも知れない。無宿善力及ばずといわれる。今はこれまで」と、決心して善知識に永遠のおいとまを願って出た。
師僧は残念に思ったが、余りにも明詮の決意の程が堅いので慰留をあきらめ、それを許した。

しかしさすが永年苦楽を共に修行した師や法友と別れるのはつらかった。明詮は泣きながら寺を出た。
ところがその時、俄かに大雨が降って来たので、止むなく山門の下に腰を下し、雨の晴れるのを待っていた。その時、何気なく山門の屋

根から落ちる雨脚を見ていた明詮は、雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気がついた。

こんな堅い石に、どうして、こんな穴があいたのだろう。まぎれもない。それは雨滴の仕業ではないか。このやわらかい水滴が、この堅い石に穴をうがったのか。何という驚くべき事実であろう。
そうだ、自分は二年や三年の修行努力でへこたれて断念したが、この水にも恥ずべき横着者であった。仏法の重さを知らなかった。
後生の一大事を軽くみていたのだ。
たとえ、水のような力のない自分でも、根気よく求めてゆけば必ず魂の解決が出来るに違いない。
と奮然として、その場を立った明詮は、水から受けた大説法を師匠に話し、深く前非をわびて努力精進して、後に音羽の明詮といわれる大徳になったのである。

自分の心をみつめると、とても“強い”とはいえない。
いえ、とても弱いものです。
弱いから「どうせ駄目」と思うか、弱いから「人より頑張ろう」と思うか、ここが大きな分かれ道のような気がします。

こんな私だから、他人よりも多く時間をかけてやってみよう、こんな私だから、他人より繰り返しやっていこう、こう心がけていったら、きっと未来は開けるはず!

そんな風に、こころがちょっと明るくなった私でした。
今で親鸞会で聞いたお話や親鸞聖人の教えについてお話してきたのですが、この親鸞聖人の教えを後々まで伝えたのが蓮如上人であり、そして現在にいたっては親鸞会だということが、今までいろんなお話を親鸞会で聞く上ではっきりと分かりました。

6月 22

今回、親鸞会の館では親鸞聖人の降誕会(ごうたんえ)というものが勤められました。
これは親鸞聖人の生誕をお祝いして親鸞聖人の教えを聞かせていただく御縁のです。

その中で、聞いたお話は次のような内容です。

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昔、中国に、何時も樹上で、坐禅瞑想していた鳥巣という僧がおり、ある日、儒者で有名な白楽天がその樹下を通って一つ冷やかしてやろうと企て・・・
「坊さんよ、そんな高い木の上で、目をつむって坐っていては、危ないではないか」
鳥巣すかさず、
「そういう貴殿こそ、危ないぞ」 と切り返し
この坊主、相当偉いのかも知れぬ、と見てとった白楽天は、「私は名もなき白楽天という儒者だが、貴僧の名を承りたい」と尋ねると、
「私は鳥巣という名もなき坊主だ」
これが有名な鳥巣禅師と知った白楽天は、かねてから仏教に関心を持っていたので「いゝ処で貴僧に遇った。一体、仏教とは、どんなことを教えているのか、一言でおききしたい」と頭を下げた。

鳥巣は即座に、「もろもろの悪を為すことなかれ、謹んで善を修めよ、と教えるのが仏教である」と答え、白楽天はいささか呆れて「そんなこと位なら、三才の子供でも知っている」 と冷笑すると、鳥巣すかさず「三才の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行なうは難し」 と大喝している。

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言うは易し、行うは難しということですね。

「わかっちゃいるけど、やめられない」

身体に悪いと思いつつ、お菓子一つやめられない。
とても反省させられました。

まずは「出来てるつもり」から「出来てないことを反省する」ところにたって、努力していこうと誓うのでした☆

6月 8

先日の親鸞会館で親鸞聖人の講演会がありました。
今日は、そのお話の内容を書く前に親鸞会で発見したことを少しお話したいと思います。
親鸞会について話してきましたが、浄土真宗親鸞会では会長の高森顕徹先生が
親鸞聖人の教えを手垢をつけず、そのまま話をされています。
当然ですが、最初から今のように大きな会館だったわけではなく、誰も聞く人がないなか、辻説法から始まったそうです。

そんな親鸞会の簡単な経緯をお話したところで、今回親鸞会で聞くことができた内容をお話したいと思います。
その内容は、「人身受け難し」のお釈迦さまのお言葉についてでした。

その時、盲亀浮木の譬というたとえ話がなされました。

※わかりやすい動画がこちらにあります。
http://www.shinrankai.or.jp/s/movie/moukihuboku/index.htm

世に難しいことは多々あれども、盲亀浮木の譬のような「難」とはくらべるべくもなく、いかに人間に生まれることが有難いか改めて知らされました。

しかしただ確率が低くても、そこに「喜び」がなければ、意味がありません。
現実にはせっかく人間に生まれても、喜びの声は聞こえず、“科学、医学、政治、経済などの進歩”と“幸福”とは次元を異にしているかのようです。
皆、空と水しか見えない人生という海に溺れ、方向を見失っています。
哲学者ニーチェは「偉大とは方向を示すことだ」と言い、文学者カフカは「われわれが欲しいのは出口です」と叫び、泳ぎ方よりも、泳ぐ方向の重要性を訴えましたが、西洋答えを見出すことは出来ませんでした。
「進む方角が分かっただけで目的地についていないから意味がない」
などといっている人は、いまだ自分が水平線のど真ん中にいることすら理解できていないのだと思います。
そんな中、と進むべき方向を明らかに知らされた人は本当に幸福者だと感じました。