5月 27

今日は親鸞会で「自利利他」ということを教えてもらいました。

自利利他とは、他人を幸せにする(利他)ままが、自分の幸せ(自利)になるということです。

情けは他人のためならず、という言葉があります。

最近では
「情けをかけるとあまやかされてその人の為にならないから、情けをかけないようにしよう」
など間違った理解がなされているようですが、本来の意味は「情けをかける(良いことをする)と、他人も幸せになるけれども何より自分の 幸せになる」ということなんです。

ついつい自分のことばかり考えてしまうけど、それは我利我利(ガリガリ)の考え。
周りの人も不幸にするし、結局自分も不幸になってしまうのです。

相手の他人の幸福を念じて行動する、それが他人も自分も幸せにする菩薩の道なのです。
では今日も一つのお話を紹介して終わりに致しましょう☆

(1) この柱も痛かったのようるわしき母子

かつて講演にゆく、車中での出来事である。
ちょうど車内は、空席が多く広々として静かであった。ゆったりとした気持ちで、周囲の座席を独占し、持参した書物を開いた。
どのくらいの時間が、たったであろうか。
読書の疲れと、リズミカルな列車の震動に、つい、ウトウトしはじめたころである。
けたたましい警笛と、鋭い急ブレーキの金属音が、夢心地を破った。
機関手が踏切で、なにか障害物を発見したらしい。
相当のショックで、前のめりになったが、あやうく転倒はまぬがれた。
同時に幼児の、かん高い泣き声がおきる。

ななめ右前の座席に、幼児を連れた若い母親が乗車していたことに気がついた。
たぶん子供に、窓ガラスに額をすりつけるようにして、飛んでゆく車窓の風光を、楽しませていたのであろう。
突然の衝撃に、幼児はその重い頭を強く窓枠にぶつけたようである。子供はなおも激しく、泣き叫んでいる。
けがを案じて立ってはみたが、たいしたこともなさそうなので、ホッとした。

直後に私は、思わぬほのぼのとした、心あたたまる情景に接して、感動したのである。
だいぶん痛みもおさまり、泣きやんだ子供の頭をなでながら、若きその母親は、やさしく子供に諭している。
「坊や、どんなにこそ痛かったでしょう。かわいそうに。お母さんがウンとなでてあげましょうね。でもね坊や、坊やも痛かったでしょうが、この柱も痛かったのよ。お母さんと一緒に、この柱もなでてあげようね」
こっくりこっくりと、うなずいた子供は、母と一緒になって窓枠をなでているではないか。
「坊や痛かったでしょう。かわいそうに。この柱が悪いのよ。柱をたたいてやろうね」
てっきり、こんな光景を想像していた私は赤面した。
こんなとき、母子ともども柱を打つことによって、子供の腹だちをしずめ、その場をおさめようとするのが、世のつねであるからである。
なにか人生の苦しみに出会ったとき、苦しみを与えたと思われる相手を探し出し、その相手を責めることによって己を納得させようとする習慣を、知らず知らずのうちに私たちは、子供に植えつけてはいないだろうか、と反省させられた。

三つ子の魂、百までとやら、母の子に与える影響ほど絶大なものはない。
相手の立場を理解しようとせず、己だけを主張する、我利我利亡者の未来は暗黒の地獄である。
光明輝く浄土に向かう者は、相手も生かし己も生きる、自利利他の大道を進まなければならない。
うるわしきこの母子に、〝まことの幸せあれかし〟と下車したのであった。

仏教に入門したばかりの私ですが、この母親の行動は仏教の教えや仏教用語を意識して起こした行動ではなく、2600年もの長い間、人に親しまれただけある仏教だからこそ自然に行動したのだと思います。
人と仏教の関係。
本当に奥が深いものですよね!

5月 7

親鸞会で聞いた仏教に関するお話を書いているサイトです。
今回親鸞会で教えてもらったお話の内容は、本当に自分にとって身近に感じられるというか、反省させられるないようのものでした。

その内容というのが「愚痴」という言葉について。
次のように親鸞会で教えてもらいました。

「愚痴っぽい」とか「愚痴る」とかいうあの「愚痴」ですね。

文字をミテミマショウ。

「愚」は“おろか”という字。
「痴」はやまいだれの中に、知恵が入っていますから「只今、知恵が入院中」ということ。

つまり「愚痴」とはバカでバカな心、ということですね。

何が分からなくてそういわれるのかといいますと、宇宙の真理である「因果の道理」が
分からないから「愚か」と言われるのです。

道理とは、いつでもどこでも変わらない真理ですが、そんな時代も国も超えた真理とは
何かといいますと、それが「因果」という真理なんです。

因果とは、原因と結果、ということ。
どんな結果にも必ず原因がある。
原因なしにおきる結果は万に一つ、億に一つない、ということです。

分かりやすい言葉でいえば、蒔かぬ種は生えぬ、刈り取らねばならない一切のものは
自分の蒔いた種ばかり、ということです。

この因果の道理が分からずに、苦しいのを他人のせいにして、余計苦しんでいる心が
愚痴なのです。

最後にこんな話を紹介しましょう☆

悪人ばかりだとケンカにならない
一家和楽の秘訣

ある所に、内輪ゲンカの絶えないA家と、平和そのもののB家とが隣接していた。
ケンカの絶えないA家の主人は、隣はどうして仲よくやっているのか不思議でたまらず、ある日、B家を訪ねて懇願した。
「ご承知のとおり、私の家はケンカが絶えず困っております。お宅はみなさん仲よくやっておられますが、なにか秘訣でもあるのでしょうか。一家和楽の方法があったら、どうか教えていただきたい」
「それはそれは、別にこれといった秘訣などございません。ただお宅さまは、善人さまばかりのお集まりだからでありましょう。私の家は悪人ばかりがそろっていますので、ケンカにはならないのです。ただそれだけのことです」
てっきり皮肉られているのだと、A家の主人は激怒して、
「そんなばかな!!」と、言おうとしたとき、B家の奥で大きな音がした。
どうも皿かお茶碗でも割ったようである。
「お母さん、申し訳ありませんでした。
私が足元を確かめずにおりましたので、大事なお茶碗をこわしてしまいました。私が悪うございました。お許しください」
心から詫びている、お嫁さんの声がする。
「いやいや、おまえが悪かったのではありません。先ほどから始末しようしようと思いながら横着して、そんなところに置いた私が悪かったのです。すまんことをいたしました」
と、続いて姑さんの声が聞こえてきた。
「なるほど、この家の人たちは、みんな悪人ばかりだ。ケンカにならぬ理由がわかった」
A家の主人は感心して帰ったという。

「謗るまじ たとえ咎ある 人なりと   我が過ちは それに勝れり」

文字にすると難しいように思いますが、親鸞会の会員の人はとてもわかりやすく、ユーモアに教えてくださいますので、お話を聞いていても楽しかったですよ!