8月 17

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っています。
今回は「煩悩具足」ということについて聞かせてもらいました。仏教では、人間のことを「煩悩具足の凡夫」と言われるそうです。凡夫とは人間という意味です。「煩悩」とは、煩わせ悩ませるものと書きますが、百八の煩悩といわれるように一人一人に108あるようです。しかしまた「八億四千の煩悩」ともいわれ、親鸞会のお話では、こんなものも煩悩、こんなものも煩悩と、具体的にたくさん列記して教えてもらいました。えーそれが煩悩なの!?と思うものも煩悩でした。ここではちょっとだけ紹介しますと「食べたい、飲みたい」「ほめられたい」「あの人に会いたい」「友達がいなくて寂しい」「叱られてつらい」「食べられなくて苦しい」「お金がなくてつらい」。『歎異抄』9章には「急ぎ浄土へ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば死なんずるやらんと心細く覚ゆることも煩悩の所為なり」と書かれています。この心も煩悩と教えられています。
「具足」とは、それによってできている、ということ。例えば雪だるまは雪具足。雪がとけたら雪だるまはなくなってしまいます。100%雪です。同じように、煩悩具足ということは、煩悩以外に何もない。人間から煩悩をとったらゼロになる。100%煩悩の塊が人間という意味です。100%煩悩……。にわかには理解できませんね。70%か80%はそうかもしれないけど、少しは何かピュアなものがあるんじゃないか、としか思えません。その自己に暗い心が迷いの心。ここから先はとても深いお話で、もっと親鸞会で勉強しないと説明できませんが、私たちに八億四千の煩悩あるがゆえに、その治療が八万四千の法門、すなわち仏教となったともお聞きしました。煩悩具足の自分を自覚するところから、仏教は始まるということでしょう。

7月 29

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っています。
今回は「信心」ということについて聞かせてもらいました。「信心」と聞くと、ふつう「弱い人間が神や仏を信じること」って思いますよね。でも、ちょっと違うンです。何が違うかって。
<どうせ人間は皆、弱いとかいうんだろう>と思ったあなた、残念。はずれ。親鸞会で聞いた答えは、<神や仏を信じるだけが信心ではない>ということなんです。広い意味でいえば、<心で何かを信じていれば、それはその人の信心>です。なるほど、たしかに文字からして「心で信じる」と書いて「信心」ですもんね。この場合、信じるとは言葉をかえれば「頼りにする」「あてにする」「支えにする」というと分かりやすいでしょうか。
ほー、信心とは、心で何かを信じていることか。そうなると、神や仏に限りませんね。いやいや、それどころか何も信じていない、無信心の人なんて、いないのじゃないでしょうか。親をたよりにしているし、お金をたよりにしている。金融システムを信じている。病気になれば、医者を信じて、処方された薬の成分も調べず、ぱくぱくのんでいる。ジェネリック医薬品で時々、数年後に発売中止になるものもあるんでしょ。でも、処方されたら信じてのむ。一つ一つ、疑いはじめたら、一歩も動けない。いや、動かないこの場所が危険ではないかと疑いはじめたら、どうすりゃいいんだ。
今の例は、僕が考えたもので親鸞会で聞いたのではありませんが、とにかく、わずか数分の間に「信心=弱い人間が神や仏を信じること」という方程式が崩れ「だれも無信心の人はありえない」という理解に僕は至りました。いやー、楽しかったね!

6月 16

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っています。前回は「口や身の行いよりも、いちばん重いのは心の行い」なのに、私たちは「心の行い」をどれだけ重く考えているだろうか、というところで終わりました。
仏教では、私たちの行いを、心と口と身の三方面から教え、中でも最も重い行為が「心の行い」であると説かれています。口や身の行為は、心の命令によってなされるからですね。
でも私たちは、心の行い(悪)を全く見逃しているのではないでしょうか。
これについて、親鸞会でこんな例えを聞かせてもらいました。
戦後の混乱期、生活物資は不足し米の配給制がとられた。その時、流通したのが「闇米(やみごめ)」といわれるもの。闇にまぎれて(か、どうか)農家から直接買い付け不正に横流しされる闇米を取り締まるため、警官が、あやしい人物をチェックし、呼び止めては闇米を押収した。ところが、取り締まっていたのは、個人の、わずかな闇米ばかりで、トラック一杯に買い付けた闇米は検問にもひっかからずスルーパスであったといいます。巨悪を見逃し、小さな悪だけ取り締まっていては、お話にならない、とだれしも思うでしょう。ところが、私のつくっている行為(悪)については、どうか。口や身より最も重い心の行い(悪)を見逃して、言動ばかりを問題にしているのは、闇米のトラックを見逃していた警官と、何ら変わるところがありません。
うーん、なるほど。親鸞会でお話を聞いて、だんだん仏教の教えが分かってきたような気がします。

5月 19

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っています。前回から「心と口と身の行いの中で、いちばん重いのは何か」というお話について書いています。

仏教では、私たちの行いを、心と口と身の三方面から教えていますが、中でも最も重い行為が「心の行い」であると教えられるそうです。その理由は、口や身の行為は、心の命令によってなされるから、です。
火事場に例えれば、「心の行い」が「火の元」であり、「口や身の行い」は、燃え上がる「火の粉」にすぎません。すると法律や倫理道徳で取り締まり、問題にしているのは「火の粉」ということになりますね。だから石川五右衛門が捕まった時、「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人のたねは尽きまじ」と詠んだと、いつだったか親鸞会の人に教えてもらったことがあります。なるほど、火事場で火の粉にどれだけ水をかけても火事は消えないように、一人の盗人を捕まえても、次から次と別の火の粉が舞い上がってくるだけでしょう。(でも盗人が自分でそれを言うのは、ほめられたことじゃないよね)。それはさておき、心こそ火の元であり、問題は心にあるということが分かります。消火も火元に主力がおかれるように、だから仏教では常に心に視点をおかれるんですね。
それにしても私たちは、心の行いを、どれだけ重く考えているでしょう。全く見逃しているのではないでしょうか!!思わずうなった例え話を、次に紹介したいと思います。と思ったら、長くなってしまいましたので次回、乞うご期待。
 何しろ親鸞会でお話を聞かせてもらうと、目からウロコが落ちるばかりです。

4月 23

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っています。今回心に残ったのは「心と口と身の行いの中で、いちばん重いのは何か」というお話です。
「行い」と聞くと普通、身でやる行いを思い浮かべますよね。でも仏教では、私たちの行いを心と口と身の三方面から教えられています。口で何かしゃべることを、身の行いとは分けて教えられるんですねー。それより驚くのは、心で思うことを「行い」であるとみることではないでしょうか。たぶん、仏教を聞かなければ、それが「行い」だということさえ、なかなか気づかないところだと思います。しかし最近は「心の行い」と聞いてすっと理解できる人も案外、多いかもしれません。といいますのも、アメリカで社会現象を引き起こしたという「引き寄せの法則」は「思い=心の行い」がエネルギーとなって運命をつくる、というものだから。さて、少し話がそれました。

仏教では、そのように心と口と身の三方面から私たちの行いを教えられていますが、中でも最も重い行為が「心の行い」であると教えられています。その理由は、口や身の行為は、心の命令によってなされるから、です。
例えで考えてみましょう。これはその時、親鸞会で聞いた話ではありませんが、川に例えれば、上流が心。下流が口や身の行いとなる。上流に赤いインクをたらせば下流も赤くなり、上流に青いインクをたらせば下流も青くなる。上流で青いインクをたらしながら、下流で赤くなるということはない。心が源流であり、口や身の行いの「もと」だということですね。だから、それだけ心の責任は重いということです。

あれ?でも法律や倫理道徳では、口や身の行為は問題にされますが、心でどんなことを思っているかまで問題にされないのでは?はい、そうですよね。なぜでしょうか。心で何を思っているか、だれも分からないからでしょうか。それもあるかもしれません。が、もし心まで問題にしだしたら、みんな刑務所に入らなければならなくなってしまう。裁判官も弁護士も検察官も。それでは社会が成り立ちません。というわけで、法律や倫理道徳では、口や身の行為しか問題にしない(できない)と教えてもらいましたが、仏教は、真実を教えられていますから、口や身より、心の行為を徹底して問題にされるのですね。それにしても、私たちは、心の行いを、どれだけ、重く考えているでしょうか。全然考えていなかった!!!!とビックリ。これについては、更に、例え話で教えてもらいましたが、長くなりますので、次回にしたいと思います。それにしても親鸞会で仏教を聞くようになって、目からウロコが落ちる連続です。

3月 17

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っています。今回心に残ったのは「生死の苦海ほとりなし」という言葉です。親鸞聖人の書かれた「和讃」といわれる詩にあります。

「生死の苦海ほとりなし ひさしく沈めるわれらをば
 弥陀弘誓の船のみぞ 乗せて必ず渡しける」

「生死」とは「苦しみ」。すぐあとにまた「苦海」とあります。「苦しみの海」とは、私たちの人生のこと、と聞きました。人生を海に例えて「生死の苦海」といわれているのですね。「ほとりなし」とは「果てしがない」。だから、この一行の意味は「果てしない苦しみの海のような私たちの人生」ということになるでしょうか。
 科学の進歩はめざましく、ケータイは小学生でも持っています。いつでもどこでも好きな人と連絡がとれ、確かに世の中便利になりましたが「幸せ感」としてはどうなんでしょう。いろいろなものが高度に発達したおかげで、社会システムに「あそび」の部分がなくなって窮屈な世の中になった気がする今日このごろです。自分自身も、困っている人を助けてあげるような心のゆとり、時間のゆとりがない気がします。
親鸞会でのお話にも出てきましたが、自殺者は12年連続3万人以上。親鸞聖人は700年以上前の方ですが、700年前に言われたことが、今日もまったくあてはまることに驚きます。「ひさしく沈めるわれら」ですから、ずっと生死の苦海に沈んでいるということですね。そういえば政権交代の熱い夏も、今は昔、半年でこんなに冷めてしまうものなのか……とため息がでます。「何か変わるのでは」と期待しては裏切られ、いまだかつて幸せになったためしはないのかも。

そんな苦しみの海にひさしく沈んでいる私たちを「弥陀弘誓の船のみぞ、乗せて必ず渡しける」。本当の幸せに助けることができるのは、弥陀の救いだけなのだと、聞かせてもらいました。「のみ」というところが、キモです。「オンリーワン」ということですね。「ゼロ」じゃないということは、すごいことだと思います。親鸞聖人の教えられたことは、弥陀の本願一つともお聞きしました。親鸞会で続けて学んでいきたいと思います。

2月 8

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っています。今回心に残ったのは「現在は過去と未来を解く鍵」というお話。

お経の中に、こんなお言葉があるそうです。

「過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。
 未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」

その前におさらい。どんな小さな出来事にも、必ず原因がある。原因なしに起きる結果は一つもない。

まかぬタネは生えぬが、まいたタネは必ず生える。

いわゆる原因と結果の法則です。

その関係は、善因善果、悪因悪果、自因自果(自業自得とも)。

親鸞会の知人からも何度か聞かせてもらいました。最初は「当たり前じゃない?」「小学生でも知っているよ」と思ったりもしましたが、これがとてつもなく深いということに最近、だんだん気づき始めました。

ところで、この因果の法則を言い換えるとどうなるか、考えてみましょう。

・まいたタネに応じたものしか、生えてはこない。
・生えてきたものをみれば、まいたタネが分かる。
・まいているタネをみれば、何が生えてくるか分かる。

因(タネ)とは私たちの行いのこと。結果とは幸不幸の運命だから、

・自分の行いによって、自分の運命が決まる。
・現在の運命をみれば、過去に自分のやった行いが分かる。
・現在の自分の行いをみれば、未来の自分の運命が分かる。

そこで、「過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」。現在の自分を見れば過去も未来も分かる。ビジネス界にはしゃれた言い方を考える人があるもので、「あなたは行動を選択するときに、結果も選択しているのだ」と、どこかで読んだ記憶があります。ただ、仏教のすごいところは、この原因と結果の法則が、この世にとどまらないところ。(ただ今、勉強中)。親鸞会で続けて聞いていきたいと思います。

1月 20

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っています。
今回、心に残ったのは、「仏教は鏡」というお話です。鏡といえば、自分の姿をうつすものですよね。仏教はその「鏡」なのだそうです。「法鏡」といわれます。「法」とは「真実」ということで「真実の鏡」。ということは……そう、仏教を聞くということは、自分の本当の姿を知らされる、ということになりますよね。人間の真実の姿を説かれているのが仏教、ともいえるでしょうか。
仏教と聞くと、「難しい!」というイメージが先行しがちでしたが(私だけ?!)、親鸞会で、仏教は鏡だと聞いて、なんだか、とっても身近なものに感じられてきました。生きている中で、私たちが知りたいことは、いろいろありますが、「自分を知りたい」という気持ち、強くありませんか。やっぱり何より自分が大事だからでしょうか。(集合写真で、まず探すのは自分といわれますし。えっ、関係ない?)あまりに近すぎて分からないのが自分自身ですよね。知りたいのに近すぎて分からない。だから鏡が必要なんですね。もちろん、どんな鏡でもいいわけじゃない。自分を正確にうつす鏡でなければダメ。そんな真実の自己をうつす鏡が、仏教なんだよって。なんか、うれしい。親鸞会で続けて聞いていきたいと思います。

12月 25

親鸞会でお聞きしたお話の感想を綴っています。

テレビ座談会って個人的にすごくいい、です。初心者も分かりやすくて。ただ、聞いた内容をちゃんと再現できるか、どうかは別なんですけど。先日は仏教学ということで「断見」「常見」という言葉を習いました。
 断見とは「死後はない」という考え方。「無の見」ともいわれます。常見とは「死後、固定不変の霊魂が存続する」という考え方。「有の見」ともいうそうです。そしてなんと、いずれも仏教では間違いとされるそうです。(真理に外れた教えということで「外道」といわれる)

 死んだらどうなるのか。だれしも一度は考えますよね。「大霊界」とか「死後世界地図」とか「生まれ変わり」といってイメージしているのは、おそらく「有の見」でしょう。神社に死んだ人を祭っているのもそう。「死後は無い」という「無の見」は分かりやすいですね。皆さんはどっちだと思っていました(思っています)か。「わからない」という立ち位置もありますよね。それが謙虚というか。しかし考えてみれば必ずぶち当たる死。人間って確実な未来が分からない中で生きてるんですね。別の時の親鸞会のお話で、死んだらどうなるか分からない心を「無明の闇」と言われ、それが苦しみの根元だと聞いた覚えがあります。ちょっと脱線しましたが、そんなことも考えました。

 それにしても、死後、固定不変の魂が続くというのも間違い、死後は無いというのも間違いなら、本当のところは何だろうか、という疑問が当然わきますよね。この二つ以外、普通考えつかないでしょ?常見、断見、どちらも間違い、と教えていると知って、仏教ってなんかスゴイ……と感じました。
 で、本当のところはどうなのかって?はい、まだ勉強不足で、そこまで説明できません(汗)。親鸞会でひきつづき、学んでいきたいと思います。

11月 25

親鸞会でお聞きしたお話を綴っています。先日、座談会に参加させてもらいました。いわゆる「質疑応答」です。そこで「八識」について質問された方があり、詳しく聞かせてもらいました。

仏教では「心」といっても、いろいろあると教えられ、八つに分けて「八識(はっしき)」と言われるそうです。「識」というのは「心」のことですね。
その八識の中で、「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」の五つを「前五識(ぜんごしき)」といわれるんです。ちょっと、文字にすると難しく見えますが、とても分かりやすいお話でしたよ。

「眼識(げんしき)」とは目の心とあるように、色や形を見分ける心。私たちは、いろいろなものを目にしますが、嫌なものは見たくありません。(食事時に、殺人事件のニュースって、やめてほしいですよね。自分が見なければいいんですけど)。そこで、目を楽しませてくれるものを求めます。例えばきれいな風景や、かわいい動物、美しい女性など。しかし、どんなにきれいなものといっても、ずーっと見て飽きないものはない、と教えてもらいました。確かにその通り、ですよね。「虹を15分眺める人はない」ということわざを、どこかで聞いたことがあります。世界遺産をめぐる旅がはやっていますが、たぶん、現地に住んでいる人には見慣れた風景で、初めて訪れた人の胸におこる感動は味わえないでしょう。そういえば、親鸞会館の近くにも名勝・雨晴海岸があります。海の上に3000メートル級の山々がそびえる、世界でも3カ所だけの絶景とか。そんな海岸に住んでいたら、毎日絶景に感動の人生となるでしょうか。答えはNo。やがて見飽きて、ただの海になるそうです。現地の人が言っているので間違いありません。私も昔は、海の見える家に住むのが夢でした。そんなところに住んだらどんなに幸せだろうと思っていましたが、眼識の実態を知れば、それは幻想と認めざるをえません。早く気づいてよかったというべきでしょうか。どんな美しいものも、見続けたら飽きる。だから私たちは、次から次へと別のものを追い求めることになります。夫婦にあてはめるとちょっと危ないですけどね。

「耳識(にしき)」とは耳の心。音を聞き分ける心です。これも、どんなに心地のよい音楽でも、ずっと聞き続けても飽きないものはないでしょう。だから常に新しい音楽が生み出され、何百曲もIpodにいれて、シャッフルしています。

「鼻識(びしき)」とは鼻の心。においをかぎ分ける心です。どんないい香りも、ずっとかいでいたら、そのうち鼻が慣れて最初の心地よさは感じられなくなります。だからこそトイレに入っても救われる、と聞きました(笑)。いい香りだけでなく、臭いものでも、鼻が馬鹿になって平気になるということですね。ともあれ鼻識の楽しみも一時的なものです。

「舌識(ぜっしき)」とは舌の心。食べる楽しみです。どんなに美味しい物でも、食べ続けたら飽きます。私は、おいしいものを見つけたら飽きるまで食べる主義ですが、その結果、やがて足が遠のき、見向きもしなくなったものがいくつあることか。小さいころ、グラタンが大好きで食べ続けた結果、今は逆に全く食べられなくなってしまったという、気の毒な知人がいます。これは極端な例としても、毎日同じメニューを食べ続けたら、どんなに美味しくても最初の感動はなくなるでしょう。

「身識(しんしき)」とは身体の心。寒、暖、痛、快などを感じる心です。これも、いつまでさわっていても心地いいというものは、ありません。

こうしてみてみると、「前五識」の楽しみって、はかないですよね。刹那的というか。しかし考えてみれば、毎日私たちが追い求めているものって、ほぼこれしかないんじゃないかと思います。「楽しみ」というキーワードを頭の中で検索して出る項目は、大体、前五識のどれかに分類できそうです。そして、あれも飽きたし、これも飽きた、とだんだん絞込み検索されて「何か、楽しいことない?」と言っている。正直、そういうのはもういいよっていう感じが、するわけです。もっと違う幸せを求めたいというか。仏教で問題にしているのは、そんな前五識の楽しみではなくて、もっと深い心にあるようです。だから魅かれるのかもしれませんね。ひき続き、親鸞会で詳しく聞いていきたいと思います。

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