7月 6

毎回ですが、今回も親鸞会で聞いた仏教のお話を書いています。

今回、親鸞会で聞いたおはなしは、「人生の目的」についてのお話なのです。

近年、この日本で自殺する人は、年間3万人を越えており、それが10年以上続いているそうです。
ということは、10年間で30万人!!

これはとても大変なことですね。
原因としては、病気、人間関係、失恋、借金などなどいろいろあります。
最近ならマイケルジャクソンの後追い自殺も問題になっているようです。
http://www.zakzak.co.jp/gei/200907/g2009070236_all.html

でも、共通していえるのは、「どうしてこんなに辛いのに生きていかねばならないの?」ということではないでしょうか?

幸せだから自殺するなんて人はいないと思います。
病気だから、人間関係に悩んでいるから、失恋してしまったからという何からの原因があるからこそ人は自殺を考え実行してしまうのではないでしょうか?

でも、辛くても人生には意味がある。
人間に生まれた今しか果たせない人生の目的があるのです!!

このことが明らかになってはじめて、自殺の根本問題が解決するのではないでしょうか。
悩んだら、いろんな相談所にいくのもいいですが、親鸞会で、人生の目的を聞いてみてはいかがでしょう?
私も親鸞会で仏教のお話を聞いている間に、自分の人生や考え方、存在そのものを深く考えるようになりました。
できることなら、この教えを生まれながらにしてもち合わせて成長していきたかったと思うほどです。

6月 28

先日、親鸞会館で「音羽の明詮」についての話があり、その話を聞くため親鸞会へ行きました。
そのお話の内容というのが次の通りです。

昔、明詮という僧が真剣に仏道修行をやっていたが、三年たっても一向に魂の解決のメドがつかなかったので、「オレは駄目な人間なのかも知れない。無宿善力及ばずといわれる。今はこれまで」と、決心して善知識に永遠のおいとまを願って出た。
師僧は残念に思ったが、余りにも明詮の決意の程が堅いので慰留をあきらめ、それを許した。

しかしさすが永年苦楽を共に修行した師や法友と別れるのはつらかった。明詮は泣きながら寺を出た。
ところがその時、俄かに大雨が降って来たので、止むなく山門の下に腰を下し、雨の晴れるのを待っていた。その時、何気なく山門の屋

根から落ちる雨脚を見ていた明詮は、雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気がついた。

こんな堅い石に、どうして、こんな穴があいたのだろう。まぎれもない。それは雨滴の仕業ではないか。このやわらかい水滴が、この堅い石に穴をうがったのか。何という驚くべき事実であろう。
そうだ、自分は二年や三年の修行努力でへこたれて断念したが、この水にも恥ずべき横着者であった。仏法の重さを知らなかった。
後生の一大事を軽くみていたのだ。
たとえ、水のような力のない自分でも、根気よく求めてゆけば必ず魂の解決が出来るに違いない。
と奮然として、その場を立った明詮は、水から受けた大説法を師匠に話し、深く前非をわびて努力精進して、後に音羽の明詮といわれる大徳になったのである。

自分の心をみつめると、とても“強い”とはいえない。
いえ、とても弱いものです。
弱いから「どうせ駄目」と思うか、弱いから「人より頑張ろう」と思うか、ここが大きな分かれ道のような気がします。

こんな私だから、他人よりも多く時間をかけてやってみよう、こんな私だから、他人より繰り返しやっていこう、こう心がけていったら、きっと未来は開けるはず!

そんな風に、こころがちょっと明るくなった私でした。
今で親鸞会で聞いたお話や親鸞聖人の教えについてお話してきたのですが、この親鸞聖人の教えを後々まで伝えたのが蓮如上人であり、そして現在にいたっては親鸞会だということが、今までいろんなお話を親鸞会で聞く上ではっきりと分かりました。

6月 22

今回、親鸞会の館では親鸞聖人の降誕会(ごうたんえ)というものが勤められました。
これは親鸞聖人の生誕をお祝いして親鸞聖人の教えを聞かせていただく御縁のです。

その中で、聞いたお話は次のような内容です。

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昔、中国に、何時も樹上で、坐禅瞑想していた鳥巣という僧がおり、ある日、儒者で有名な白楽天がその樹下を通って一つ冷やかしてやろうと企て・・・
「坊さんよ、そんな高い木の上で、目をつむって坐っていては、危ないではないか」
鳥巣すかさず、
「そういう貴殿こそ、危ないぞ」 と切り返し
この坊主、相当偉いのかも知れぬ、と見てとった白楽天は、「私は名もなき白楽天という儒者だが、貴僧の名を承りたい」と尋ねると、
「私は鳥巣という名もなき坊主だ」
これが有名な鳥巣禅師と知った白楽天は、かねてから仏教に関心を持っていたので「いゝ処で貴僧に遇った。一体、仏教とは、どんなことを教えているのか、一言でおききしたい」と頭を下げた。

鳥巣は即座に、「もろもろの悪を為すことなかれ、謹んで善を修めよ、と教えるのが仏教である」と答え、白楽天はいささか呆れて「そんなこと位なら、三才の子供でも知っている」 と冷笑すると、鳥巣すかさず「三才の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行なうは難し」 と大喝している。

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言うは易し、行うは難しということですね。

「わかっちゃいるけど、やめられない」

身体に悪いと思いつつ、お菓子一つやめられない。
とても反省させられました。

まずは「出来てるつもり」から「出来てないことを反省する」ところにたって、努力していこうと誓うのでした☆

6月 8

先日の親鸞会館で親鸞聖人の講演会がありました。
今日は、そのお話の内容を書く前に親鸞会で発見したことを少しお話したいと思います。
親鸞会について話してきましたが、浄土真宗親鸞会では会長の高森顕徹先生が
親鸞聖人の教えを手垢をつけず、そのまま話をされています。
当然ですが、最初から今のように大きな会館だったわけではなく、誰も聞く人がないなか、辻説法から始まったそうです。

そんな親鸞会の簡単な経緯をお話したところで、今回親鸞会で聞くことができた内容をお話したいと思います。
その内容は、「人身受け難し」のお釈迦さまのお言葉についてでした。

その時、盲亀浮木の譬というたとえ話がなされました。

※わかりやすい動画がこちらにあります。
http://www.shinrankai.or.jp/s/movie/moukihuboku/index.htm

世に難しいことは多々あれども、盲亀浮木の譬のような「難」とはくらべるべくもなく、いかに人間に生まれることが有難いか改めて知らされました。

しかしただ確率が低くても、そこに「喜び」がなければ、意味がありません。
現実にはせっかく人間に生まれても、喜びの声は聞こえず、“科学、医学、政治、経済などの進歩”と“幸福”とは次元を異にしているかのようです。
皆、空と水しか見えない人生という海に溺れ、方向を見失っています。
哲学者ニーチェは「偉大とは方向を示すことだ」と言い、文学者カフカは「われわれが欲しいのは出口です」と叫び、泳ぎ方よりも、泳ぐ方向の重要性を訴えましたが、西洋答えを見出すことは出来ませんでした。
「進む方角が分かっただけで目的地についていないから意味がない」
などといっている人は、いまだ自分が水平線のど真ん中にいることすら理解できていないのだと思います。
そんな中、と進むべき方向を明らかに知らされた人は本当に幸福者だと感じました。

5月 27

今日は親鸞会で「自利利他」ということを教えてもらいました。

自利利他とは、他人を幸せにする(利他)ままが、自分の幸せ(自利)になるということです。

情けは他人のためならず、という言葉があります。

最近では
「情けをかけるとあまやかされてその人の為にならないから、情けをかけないようにしよう」
など間違った理解がなされているようですが、本来の意味は「情けをかける(良いことをする)と、他人も幸せになるけれども何より自分の 幸せになる」ということなんです。

ついつい自分のことばかり考えてしまうけど、それは我利我利(ガリガリ)の考え。
周りの人も不幸にするし、結局自分も不幸になってしまうのです。

相手の他人の幸福を念じて行動する、それが他人も自分も幸せにする菩薩の道なのです。
では今日も一つのお話を紹介して終わりに致しましょう☆

(1) この柱も痛かったのようるわしき母子

かつて講演にゆく、車中での出来事である。
ちょうど車内は、空席が多く広々として静かであった。ゆったりとした気持ちで、周囲の座席を独占し、持参した書物を開いた。
どのくらいの時間が、たったであろうか。
読書の疲れと、リズミカルな列車の震動に、つい、ウトウトしはじめたころである。
けたたましい警笛と、鋭い急ブレーキの金属音が、夢心地を破った。
機関手が踏切で、なにか障害物を発見したらしい。
相当のショックで、前のめりになったが、あやうく転倒はまぬがれた。
同時に幼児の、かん高い泣き声がおきる。

ななめ右前の座席に、幼児を連れた若い母親が乗車していたことに気がついた。
たぶん子供に、窓ガラスに額をすりつけるようにして、飛んでゆく車窓の風光を、楽しませていたのであろう。
突然の衝撃に、幼児はその重い頭を強く窓枠にぶつけたようである。子供はなおも激しく、泣き叫んでいる。
けがを案じて立ってはみたが、たいしたこともなさそうなので、ホッとした。

直後に私は、思わぬほのぼのとした、心あたたまる情景に接して、感動したのである。
だいぶん痛みもおさまり、泣きやんだ子供の頭をなでながら、若きその母親は、やさしく子供に諭している。
「坊や、どんなにこそ痛かったでしょう。かわいそうに。お母さんがウンとなでてあげましょうね。でもね坊や、坊やも痛かったでしょうが、この柱も痛かったのよ。お母さんと一緒に、この柱もなでてあげようね」
こっくりこっくりと、うなずいた子供は、母と一緒になって窓枠をなでているではないか。
「坊や痛かったでしょう。かわいそうに。この柱が悪いのよ。柱をたたいてやろうね」
てっきり、こんな光景を想像していた私は赤面した。
こんなとき、母子ともども柱を打つことによって、子供の腹だちをしずめ、その場をおさめようとするのが、世のつねであるからである。
なにか人生の苦しみに出会ったとき、苦しみを与えたと思われる相手を探し出し、その相手を責めることによって己を納得させようとする習慣を、知らず知らずのうちに私たちは、子供に植えつけてはいないだろうか、と反省させられた。

三つ子の魂、百までとやら、母の子に与える影響ほど絶大なものはない。
相手の立場を理解しようとせず、己だけを主張する、我利我利亡者の未来は暗黒の地獄である。
光明輝く浄土に向かう者は、相手も生かし己も生きる、自利利他の大道を進まなければならない。
うるわしきこの母子に、〝まことの幸せあれかし〟と下車したのであった。

仏教に入門したばかりの私ですが、この母親の行動は仏教の教えや仏教用語を意識して起こした行動ではなく、2600年もの長い間、人に親しまれただけある仏教だからこそ自然に行動したのだと思います。
人と仏教の関係。
本当に奥が深いものですよね!

5月 7

親鸞会で聞いた仏教に関するお話を書いているサイトです。
今回親鸞会で教えてもらったお話の内容は、本当に自分にとって身近に感じられるというか、反省させられるないようのものでした。

その内容というのが「愚痴」という言葉について。
次のように親鸞会で教えてもらいました。

「愚痴っぽい」とか「愚痴る」とかいうあの「愚痴」ですね。

文字をミテミマショウ。

「愚」は“おろか”という字。
「痴」はやまいだれの中に、知恵が入っていますから「只今、知恵が入院中」ということ。

つまり「愚痴」とはバカでバカな心、ということですね。

何が分からなくてそういわれるのかといいますと、宇宙の真理である「因果の道理」が
分からないから「愚か」と言われるのです。

道理とは、いつでもどこでも変わらない真理ですが、そんな時代も国も超えた真理とは
何かといいますと、それが「因果」という真理なんです。

因果とは、原因と結果、ということ。
どんな結果にも必ず原因がある。
原因なしにおきる結果は万に一つ、億に一つない、ということです。

分かりやすい言葉でいえば、蒔かぬ種は生えぬ、刈り取らねばならない一切のものは
自分の蒔いた種ばかり、ということです。

この因果の道理が分からずに、苦しいのを他人のせいにして、余計苦しんでいる心が
愚痴なのです。

最後にこんな話を紹介しましょう☆

悪人ばかりだとケンカにならない
一家和楽の秘訣

ある所に、内輪ゲンカの絶えないA家と、平和そのもののB家とが隣接していた。
ケンカの絶えないA家の主人は、隣はどうして仲よくやっているのか不思議でたまらず、ある日、B家を訪ねて懇願した。
「ご承知のとおり、私の家はケンカが絶えず困っております。お宅はみなさん仲よくやっておられますが、なにか秘訣でもあるのでしょうか。一家和楽の方法があったら、どうか教えていただきたい」
「それはそれは、別にこれといった秘訣などございません。ただお宅さまは、善人さまばかりのお集まりだからでありましょう。私の家は悪人ばかりがそろっていますので、ケンカにはならないのです。ただそれだけのことです」
てっきり皮肉られているのだと、A家の主人は激怒して、
「そんなばかな!!」と、言おうとしたとき、B家の奥で大きな音がした。
どうも皿かお茶碗でも割ったようである。
「お母さん、申し訳ありませんでした。
私が足元を確かめずにおりましたので、大事なお茶碗をこわしてしまいました。私が悪うございました。お許しください」
心から詫びている、お嫁さんの声がする。
「いやいや、おまえが悪かったのではありません。先ほどから始末しようしようと思いながら横着して、そんなところに置いた私が悪かったのです。すまんことをいたしました」
と、続いて姑さんの声が聞こえてきた。
「なるほど、この家の人たちは、みんな悪人ばかりだ。ケンカにならぬ理由がわかった」
A家の主人は感心して帰ったという。

「謗るまじ たとえ咎ある 人なりと   我が過ちは それに勝れり」

文字にすると難しいように思いますが、親鸞会の会員の人はとてもわかりやすく、ユーモアに教えてくださいますので、お話を聞いていても楽しかったですよ!

4月 28

このサイトは、親鸞会で聞いた仏教のお話について書いているサイトです。
今日も親鸞会で仏教に関するお話を聞くことができました。

今回、親鸞会聞くことができたお話は、「天上天下唯我独尊」という言葉についてです。

「天上天下唯我独尊」というと「自分だけが偉い、あとは虫けら同然」のような意味というように解釈している人が多いと思います。
たとえて言うなら、暴走族の背中にこの言葉の刺繍が!なんてことも。
ありえなくない話ですよね!
実は私も親鸞会でこの言葉の本当の意味を聞くまでは、自分だけが偉い、あとは虫けらという意味だとばかり思っていたのです。
そんな理解をしていた私ですが、親鸞会で本当の意味を聞き恥ずかしくなりました。

この「天上天下唯我独尊」の本来の意味は自分が偉い、あとは虫けらじゃないんです。
そもそもこの「天上天下唯我独尊」とはお釈迦さまのお言葉ですが、お釈迦さまが「おれだけが偉い」なんていわれないですよね。
世界の四大聖人のトップに数えられる方が、そんなことはいわれません。

「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」

で、徳のある実った人ほど頭が低くなるものです。
では、本当の意味はどのようなものなのでしょう。

「天上天下」とは、この大宇宙のこと。
唯我独尊とは、唯、我々人間だけがなしうるたった一つの尊い使命(人生の目的)がある、ということであり、つまりこの大宇宙で私たち人間だけが尊い目的をもっているという意味なんです。

我とは、私個人のことではなくて、我々人間という意味なんですよね。
聞こえてくるニュースは悲しいものが多いですが、他人の死を通して生命の大切さを感じるものです。
生命の尊厳は仏教によって知らされるということを親鸞会で教えてもらうことができました。

本当に親鸞会というところは、人生というか生きる意味といった奥深いことまで考えさせられる場でもありますが、本当に親鸞会とは勉強になる場所の1つです。

3月 26

前回は、親鸞会とは何か?親鸞会とはどのような集まりのことを言うのかをお話しました。

今回も親鸞会で聞いた仏教のお話をご紹介したいと思います。
親鸞会の人が言うには今回のお話はとても有名なお話だと聞いたのですが、正直初耳だった私。
少し恥ずかしい気持になってしまいました。

親鸞会で聞いたお話は「白骨の章」というものでした。
お話の冒頭によく葬式のときに読まれるものです。」といわれ、特に心に残ったのが「朝に紅顔ありて夕に白骨となれる身なり」というお言葉。

朝、元気に「行ってきま~す」と血色のよい顔(紅顔)で出かけるというのは、どこにでもある風景ですよね。
実際、私も今朝はそうでした。

「行ってきます」

というのは

「行って、帰ってきます」

という意味なんだそうです。

ところが、夕方に帰ってこないことがあります。
突然の交通事故や、通り魔、天災などなど、人生なにがおきるか分かりません。

「ただいま」

と帰ってこれるのは当たり前ではないのですね。

親鸞聖人は出家されるときに「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」とと詠んだそうです。
その時の年齢はわずか9歳の時の出来事なんだそうです。

「今日をさかりと咲く花もいちじんの嵐ですべて散ってしまいます。 明日といわず。今日得度していただけないでしょうか」

明日、得度をという僧侶に対して「明日の命、だれが保障してくれましょう」というわけです。
親鸞会でこの話を聞いた時、私は「ああ、自分は一日をおろそかにしているな」と反省したのを覚えています。

最後に親鸞会の一日一訓カレンダーの言葉を紹介しましょう。

「今晩死ぬ覚悟で何事も行うようにしよう」

3月 6

親鸞会とは、昭和33年に結成し、親鸞聖人のお名前からとって浄土真宗親鸞会という名称となったようです。
親鸞会は世界の光と仰がれる親鸞聖人の本当の教えを知りたい、という親鸞学徒が集まった人たちの集まりだと教えてもらいました。
浄土真宗親鸞会は、浄土真宗を開かれた親鸞(親鸞会の人たちは、親鸞聖人と尊称しています)の教えを、正確に、1人でも多くの方に、知ってもらおうと、日々活動をしているようです。

このサイトは、そんな親鸞聖人の教えをいろんな人に広めている親鸞会で聞いた仏教のお話(法話)やそのお話の感想を書いて行こうと思っています。
初めて親鸞会というところへ行ったのですが、本当に大きく綺麗な会館だったのにはびっくりしました。

そんな親鸞会で聞いたことをお話していこうと思います。
第1弾の今回は親鸞会で聞いた「盲亀浮木の譬」についてのお話です。

このお話はこんな内容でした。

ある時、お釈迦様が弟子の阿難に「はてしなく広がる海の底に1匹の目の見えない亀(盲亀)がいる。
海面には1本の丸太(浮木)が浮かんでいる。
その真ん中には1つの小さな穴がある。
その亀が100年に1度波の上に浮かび上がったときにちょうどこの浮木の穴から頭をヒョイと出すことがあると思うか」と尋ねたそうです。

阿難は驚いて「そんなことはとても考えられません」と答えるとお釈迦様は「阿難よ、私達が人間に生まれる事は、この亀が丸太ん棒の穴に首を入れる事が有るよりも、難しい事なんだ。有り難いことなんだよ。」
「有難い」
という言葉はここから来ているそうですよ。

という内容のお話でした。

私たちがいまこうして生きていることや、人間に生まれたことは本当に有難いこと、感謝しないければいけないことの1つなんだと、しみじみと思いました。

このお話に関係のある動画もみつけたので紹介しますね!
http://www.shinrankai.or.jp/s/movie/moukihuboku/index.htm